教えとして「縁起の教理」


私は、その数年前から、釈尊の根本経典「阿含経典」群ととり組んでいた。
  そして、これこそが、真実の仏教であると確信しはじめていた。
  その阿合経が、そのとき私のかかえこんだ問題にたいし、明確な答を出してくれ
 たのである。と同時に、思いもかけぬ奇蹟が起きたのだった。それが私を勇気づけ
 てくれた。
  その奇蹟についてはまたあとでのべよう。
  さきに、結論をいうと、釈尊の根本仏教いまここでは、それを、。阿合仏教”
 という名称で呼ぶことにするが、それは、霊性開発の部分と、超能力開発の部分
 と、二つの領域から成り立っていることに、私は気がついたのである。
  阿合仏教を分析すると、それは二つの部分から成り立つ。

   二教えとして「縁起の教理」
   二、修行法として「七科三十七道品」(三十七菩提分法”とも呼ぶ)

 である。
 これを、後世の分類法で呼ぶと、「縁起の教理」は「顕教」である。
 七科三十七道品は、「密教」にほかならない。
 このことに関して、私は、『間脳思考』(平河出版社)で、つぎのようにのべてい
る。
解脱にいたる四つの階梯
 いま、わたくしは、「解脱にいたる四つの階梯」といった。
 だれでも、解脱にいたるためには、この四つの段階を経なければならない。
そしてこの四つの階梯を、すぐれたる聖師にしたがって歩んで行くならば、だ
れごも解脱に到達できるのである。もちろん、あなたにしてもその通りだ。
四つの階梯とは、
一、シュダオン(須陀垣)
二 シダゴン(斯陀含)
三、アナゴン(阿那含)
四、アルハット(阿羅漢)
である。
説明すると、
シュダオンーーけがれをすべてとり除いた聖者
シダゴン 上局められた聖者
アナゴン   (次元を)飛躍した聖者
アルハット’-大次元を)超越し、完成した聖者、「ブッダ」ともいう。
は、この四つの階梯を、修行者はどのようにして歩んでゆくのだろうか。
霊性完成の方法と体系
 シャカが残した霊性完成の修行法がそれである。これを、わたくしは、「成
仏法」とよんでいる。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就したヒ
トを「ブッダ」とよぶ。だから、わたくしはその方法を、「成仏法」とよぶの
である。
 それは七つのシステムと三十七種のカリキュラムから或る成仏のための方法
と体系である。の仏教用語である。
 わたくしが、阿合経以外のお経--法華経、アミダ経をけじめすべてのお経
を、偽ものの経典であるといささかはげしい表現で批判するのは、阿合経以外
のお経には、どの経典にも、この成仏法がないからである。
 シャカがじっさい説かれたのは阿合経だけであるという、歴史的な事実のほ
かに、阿含経以外には、この「成仏法」がないから、わたくしはそう言うので
ある。「成仏法」のない経典など、わたくしは真実の仏教経典とみとめること
はできないのである。もちろん、それなりの存在意義なり存在価値はあろう
が、本流ではない。傍流というべきである。このことに関しては、わたくしの
他の著書を読んでいただきたい。
 七科三十七道品とはつぎのようなものである。
四念処法-‐―身念処法 受念処法 心念処法 法念処法
四正断法--断断法
律儀断法
四神足法一-―‐―欲神足法 勤神足法
随護断法
心神足法
修断法
観神足法
五根法ー一信根法 精進根法 念根法 定根法 慧根法
五力法l‐信力法 精進力法 念力法 定力法 慧力法
七覚支法-‐‐‐択法覚支法 精進覚支法 喜覚支法 軽安覚支法
      定覚支法 念覚支法
捨覚支法
情賄法
正念法
正定法
以上である。
この七科目、三十七種のカリキュラムは、
 ―、瞑想
 2、実践
 3、tapas(練行)
に分類できる。
四念処法・五根法は、瞑想である。
四正断法・五力法・七覚支法・八正道は、実践と瞑想である。
四神足法は、特種なtapasである。
神足とは、神通力(超能力)のことで、この四神足法は、超自然的な神通力
を得るための四種の修行法である。前に述べたわたくしのtapasはこれに属
するものである。
 この七つの科目のうち、taPasを中心に、瞑想と実践の科目をとり入れて修
行するのである。
 どの科目をどうとり入れて、どのように訓練するかは、聖師が決定する。修
行者それぞれ、みな素質と因縁がちがうので、それをみて、グルがきめるので
ある。
 この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよ
霊性の洗礼
まちがいなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れて
にしへ、力修け八分通り成功したといっていいくらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということ
である。

 グルなくして、ただしい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教
信心とはちがうのである。信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈
を教わるという程度のものならばとにかく、霊性開顕の仏道修行は、強力な霊
的能力を持つ聖師のたすけなくしては、ぜったいといっていいほど、できない
のである。

 たとえば、インド近代の聖者ラーマナーマハリシが、入門者にたいして、
「凝視の方法」で受け入れの儀式を行なったとき、かれの両眼の輝きと力が相
手の心をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。時と
しては、まるで電流が身の内に流れこんだように相手は感じたともいわれる。
 こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものにたい
するあこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。