第一の。作用は、。ちから’はたらキぶ乞意味し、業には業独得の力、はたらきのあることを示
す。雲照律師の強弓のたとえで矢が的にむかって飛んで行く勢と力がこれにあたる。さきに、わたく
しが、ご朋の生における思と思の所作をつぎの生にひきつづいて継続発生させるなにものかがなけれ
ばならない”といったのはこれである。三十三間堂の通し矢は的にあたれば止まるが、人間の場合は
永遠に飛びつづけるのである。
 第三の”果を分別する”とは、愛・非愛の果を選び分つ業のはたらきをいうのである。業のこのは
たらきは、善業にたいしては善果を選び取り、悪業にたいしては悪果を選び取るという現象になって
あらわれる。善業が悪果や苦果を選び取るということは決してない。このように特定の果を選び取る
ことを「分別するLといったのである。この業の力は、果を感ずる見えない力をそなえており、この
力は、果を生ずるまでは滅しないので「業力不滅」といわれる。『法句経』第二一七偶に、『虚空にお
いても、海中においても、山間の洞窟に入りても、そこにとどまりて悪業より免れるところはなし』
と説かれる場合の業は、これである。
 以上の二つの業にたいし、第二の。法式を持する”は多少の注釈が要る。これは、一定の法式にの
っとった行為が一定の強制力を持つという意味で、この法式は、自然の法則と人問がつくった人為の
法則と、両方をふくむものと解釈される。そのひとつのあらわれが。七衆の法式”で、これは後者の
人為の法則にあたるもので、。七衆”とは比丘・比丘尼・式叉摩那・沙弥・沙弥尼の出家の五衆と、
優婆塞・優婆夷の在家の二衆をくわえたものをいい、その法式とはおそらく受戒作法をさすものであ
という名の無意識
ろうという。(平川彰博士の説)
 
以上、要するに、業には、1、作用、2、法式を持する、3、果を分別する、という三つの力があ
ることがわかった。たしかにその通りであろうと思う。が、そうするとI、『倶舎論』がいう「思」
と「思の所作」はどうなるのか?『倶舎論』は見当ちがいのことをいっているのか?
   

「業」の力の媒体
 そうではないのである。『倶舎諭』は決して間違ったことをいっているのではない。論のいおうと
していることはこうなのである。
 業はまさにそのような力・作用を持っているのだが、その力・作用が表面化して人間の上にあらわ
れる場合、それは人間の思と思の所作となってあらわれるのだといっているわけである。ことばを変
えていうと、業の三つの力が(人間において)表面化し顕在化するためには、どうしても思と思の所
作が必要であるということである。
 業の力がはたらいて表面にあらわれるプロセスは、思がまず動き、つづいて思の所作(行為・行
動)となってあらわれていくということになろう(それで、。思の所作”はぶ穴に属することにな
るから、結局、ぶ穴が根本ということになる)。


引いてみよう。
   『前に、世の別は、皆、業に由りて生ずと言いたり。而して、かくの如き業は、随眠に由りて。
  方に、生長することを得。随眠を離れたる業は、有を感ずるの能無し』
 つまり、かくのごとき力と作用を持つ業は、随眠によってはじめて生長(顕在化・表面化)できる
のであって、随眠を離れた業は、人間にはたらきかけ、人間を動かすことができないのである、とい
っているのである。ところで。有”とは、こころを持つ生きものの生存をいい、要するに人間のこと
である。それが有を感ずる能がないというのは、人間の上にはたらきかける能力を持ち得ないという
ほどの意味である。
 それはそうであろう。力が顕在化するためには媒体が必要であり、なんらかの媒体があってはじめ
て力は表面化するのである。この場合、人間のぷ少がその媒体であり、それがさらに。思の所作”
となって表面化していくということであろう。ぷ少がなければさすがの業もいかんともなしがたい
というのである。当然のことというべきだろう。と、そういうと、おかしいなあとあなたはここで首
をひねるかも知れない。論の文章は、くり返し、「随眠」ということばを使っているのである。。随眠
に由りて方に生長することを得。随眠を離れたる業は……”と、随眠という文字以外、ぷ沢も。思の
所作”も出てこないではないか、どうしてそれを、ぷ心が媒体にならなければ”と著者はいうのか?
随眠の間違いではないのか?
 お答えしよう。随眠は。田少の一種なのである。わたくしはさきにいった。随眠とは無意識の意識
なのだと。
 jyとは精神作用全般をいい、無意識の意識はその精神作用に属するひとつの領域である。思うに、
論が、巻の第十三においてはぶ心と思の所作”といい、ここでは。随眠”というのは、さきには思う
という精神作用全般を出し、ここにきて、その精神作用のなかの随眠という領域がそれなのだと明か
したわけである。理解されたであろう、とそういうと、それでは随眠がなぜ無意識の意識なのかと追
求されるかも知れない。お答えしよう。ひと口でいうと、それは「思Lが深く眠って
態なのだ。では、論にしたがって、それを、明らかにしていこう。`
  随眠の種類と性能
まず、随眠の種類と性能である。
論はこういう。
  『随眠に幾く有るか。
  頌にいわく、
  随眠は諸有の本なり。これが差別に、六有り。
  謂わく、貪と、瞑と、亦慢と、無明と、見と、及び、疑となり。』
-随眠に、貪・限・慢・無明・見・疑の六種類あることを明かしたわけである。
いる
(随眠)

二、相続を立すること。
 ひとたび煩悩が起きると、つぎつぎと煩悩の念がひきつづいて起きて行くこと。
三、自田を治むること。
 田がよく稲を繁茂させるように、煩悩自体、煩悩の繁殖に適するよう仕立てること。
四、等流を引くこと。
 因(本)から果(来)を流出して現われ出た同類のもの、ここでは後に説く「随煩悩」のこと。
つまり、二の、ひとたび煩悩が起きると、つぎつぎと煩悩の念がひきつづいて起きて行くことと関
連があるわけである。
五、業有を発すること。
 業有とは、業即有で、有をあらわした業がさらにのちの有(の業)をまねく、ということ。
六、自具を摂すること。
 煩悩が煩悩みずからを育てる資糧となることをいう。煩悩自体が煩悩を生長させるものをそなえ
ているということ。
七、所縁に迷うこと。
 ものごとにふれて正しい選択を迷わせること。
八、識流を導くこと。
 こころの流れを一定の方向にひっぱること。

 九、善品を越えしむること。  ~
  よいこころを誤らしめること。正しい判断を曇らせること。
 十、広く縛する義なることなり。縛して自の界地を越ゆること能わらざらしむるが故なり。
  つまり、煩悩に縛られて、凡夫が三界九地の迷いと苦しみの境界を、どうしても解脱できないこ
 とをいう。
 以上の十種の性能作用を持つゆえに、随眠は、人間世界(諸有とは欲界・色界・無色界の三界をい
う。三有ともいい、衆生世間のこと)の本(動かす本、成立させる本、根本動因)になるのである、
と論は説くのである。
 なるほど’―・、とわれわれはしばし凡夫であるわが身の上をかえりみざるを得ぬ心境になるのであ
るが、しかしII-、この説明はいささか奇妙といわざるを得ない。変である。おそらくあなたもそう
お思いになるであろう。というのは、突然、まったく突然、
  『諸の煩悩、現起すれば』
 と、いきなり「煩悩」ということばが飛び出してきているのである。それまでくり返されてきた随
眠が突然消滅して、いきなり「煩悩Lの出現だ。これはいったいどういうことか。煩悩とはなにか?
また、その煩悩と随眠とどういうかかわりがあるのか、論はなんの説明もなく、いきなりこの言葉を
持ち出してきた。『倶1 諭』は高度の専門家を対象にして、問答体で編まれた論書なので、いたると
ころにこういう飛躍が見られるのであるが、では、ここで突然飛び出してきた煩悩と随眠と、いった
いどういう関係があるのであろうか? それを見てみよう。
  煩悩―随眠―纒

まず、煩悩とはなにかというと、仏教辞典によると、
 『煩悩CKleaaクレーシャ』悪い心のはたらき。煩らい悩み。心身を煩わし悩ます精神作用』
とある。
では、この煩悩と随眠の関係はどうか?
第一章、第二節で論はこういう。
 『煩悩の睡る位を、説いて、随眠と名づく。党る位の中においては、すなわち纒と名づく。
  何をか名づけて睡るとする。
  謂わく、現行せずして、種字の、随遂するなり。
  何をか名づけて覚とする。
  謂わく、諸の煩悩の、現起して、心を纒ずることなり。
何等をか名づけて、煩悩の種子とする。
謂わく、自体の上の差別の功能なり、(前の)煩悩より生じて、能く(後の)煩悩を生ずるこ  と、念の種子は、是れ証智より生じて
、能く当の念を生ずる功能の差別なるが如く、又芽等の、

前の果より生じて、能く後の果を生ずる功能差別有るが如し。』
 なるほどわかった!
 随眠とは、煩悩がねむっている状態をさしていうのであった! そうして、それが覚めると、今度
は「纒Lという名でよばれることになるのだというのである。なるほどそれでわかった。
 論のこの文章を解釈してみよう。
 現行というのは、文字の通り、現にはたらいていることをいい、種子とは草木などの種子と同じ意
味、随遂とは、あとからまといついてはなれないことをいう。‐
 そこで、論の文章を解釈すると、
  『煩悩がねむるとはどういうことか。
  それは、こころの表面にあらわれないで、ちょうど、植物の種子が、将来地に蒔かれたとき、芽
 を出しやがて草木に成長する可能性を持つたままねむっているように、こころの奥ふかくねむって
 いることをいうのである』(何をか名づけて睡るとする。謂わく、現行せずして、種子の、随遂す
 るなり。)j‐
  『それでは、覚とはどういうことか。
  それは、こころの奥ふかくねむっていたもろもろの煩悩(すなわち随眠)が、こころの表面にあ
 らわれてきて、表面のこころにまとわりつき、そのこころのはたらきをうばいとってしまうのであ
 る。』(何をか名づけて覚とする。謂わく、諸の煩悩の現起して、心を纒ずることなり。)
 『それでは、煩悩の種子とはなにをいうのか。
  それは、前に起きた煩悩が、その動きをおさめてしまったあとも、その影響は身心の上に残って
 こころの奥にひそみ(すなわちふたたび随眠となって)また後の煩悩をよび起こす種子になるから
 である』(何等をか名づけて、煩悩の種子とする。)
 『こころは、経験智(情報)によってはたらくが、その経験は間もなくこころの深層に入ってしま
 って、つねには表面に存在しない。しかし、必要なときにはただちに記憶として出てきてはたらく
 ように、煩悩もまた前の煩悩があとの煩悩を発起させるのである。植物の芽が、前の果実(結果)か
 ら生じて、後の果実(原因)を生ずる能力を持っているのとおなじことである。』(謂わく、自体の
 上の差別の功能なり。〔前の〕煩悩より生じて、能く〔後の〕煩悩を生ずること、念の種子は、是れ
 証智より生じて、能く当の念を生ずる功能の差別なるが如く、又芽等の、前の果より生じて、能く
 後の果を生ずる功能差別有るが如し。)
 なんと! これはまったく”無意識の意識”そのものではないか! こころの奥ふかくねむってい
るこころの状態とは、潜在意識・深層意識にほかならぬではないか。それは折にふれて動き出し、表
面意識にまとわりつき、ついにはそのはたらきを奪いとってしまう。まさに、”無意識の意識”であ
る。
 いや、それだけではない。論は、随眠品第二・第八節「随眠の異名Lのなかで、この随眠はまた 
漏・軌・取という異名とともに。暴流”という名前でよばれるといっている。`

 暴流とはなにか?
 それは強暴な流れである。
 さきにわたくしはこう途べた。
  『人間を動かすものは。こころ”であり、その。こころ”は、知性・理性・感情・意志といった
  ものに分類されるが、人間の行動を見ていると、それらの意識の領域に入らないひとつの精神作
  用があって、人間はそれにつよく動かされていることがわかってくるのである。それをわたくし
  は「衝動意識Lと名づけた。知性も理性も感情も意志も、この「衝動意識Lのつよい影響下にあ
  り、というよりも、むしろ、この衝動意識がそれらすべての意識を動かしているのではないかと
  いうことに気がついたのである。この、わたくしの「衝動意識」が、心理学のいう。無意識の意
  識”だったのである。すくなくとも、無意識の意識層のなかの、大きな領域を占めるものだった
  のだご
 すなわち、暴流とはこの衝動意識をさしていっているのではないのか。まことに、衝動とはまさに
暴流である。はげしく強暴な力を以て人間を押し流してしまう。それは奔流のごとく、洪水のごと
く、人間を押し流す。思うに、随眠とは無意識の意識が心の奥ふかく眠っている状態をさし、暴流と
はそれが目ざめて動き出した作用にたいして名づけたものであろう。
 いまから二千年も以前の古代に、無意識の意識を、これほど適確に把握していた古代の仏教に、だ
れでも驚異を感じないものはないのではないか。
 いま、わたくしは、近代心理学が発見した無意識の意識を、といったが、原始仏教は、見かたによ
っては、近代心理学よりもはるか詳細精密に、無意識の意識をとらえているのである。まさにおどろ
くべきことといわねばならない。
 では、原始仏教がとらえた無意識の意識を、さらにくわしく追ってみよう。
  根本十随眠
わたくしは、かつて、無意識の意識について、こう述べたことがある。
 『―この無意識の意識層における抑圧意識は、つねに欲求不満と被害者意識にみちみちてい
 る。それは、憎悪と怨恨と欲望のかたまりだ。そこには、他に裏切られ、迫害され、損害を受け
 た記憶しかない。ぜったいに神もホトケも、社会の公正も正義も真理もみとめない。そういうも
 のを信じてだまされ裏切られた記憶とそれにたいする怨恨と憎悪しかないのである。それがここ
 の意識なのだ。自分かひとに迷惑や損害をかけ、あるいはひとを傷つけたり迫害したり、あるい
 はひとから恩恵を受けた記憶はいっさいないのである。そういう意識はこのこころの場にはいっ
 さいない。きれいに忘れ去ってしまっている。現代人の無意識層には、このこころの場がどんど
 ん拡大され、それが精神的のみならず、肉体的にも病気をひき起こす原因となっているわけであ
 る。』(『密教入門』角川選書)