密教

一切智智は獲得できるというのだ。
 なんとおどろくべきことではないか。これを、「仏の智慧の門は難解難入なり」と投げてしまっ
ている鎌倉仏教(の『法華経』)に比較するとき、勝敗はおのずから明らかであろう。わたくしは先
きに、問題は帰するところ、平安密教の即身成仏法と、鎌倉仏教の即身成仏法と、いったいどちら
がすぐれているか、どちらが実際に即身成仏でき得るかということになるといった。その答は出た
ようである。
 顕教も密教もともに「仏とは智慧である」と結論する。しかし、顕教は、その智慧は甚深微妙に
して凡夫の知るところでなく、難解難人であってとてもその智慧の獲得などできるものではないと
いい、それ以上説かない。
 それに対して、密教は、その智慧を実際に獲得する方法を持つ。
 ここのところが、顕教と密教との根本的なちがいであり、そしてこのちがいこ千か決定的なので
ある。密教こそ仏教の真髄であり、仏陀の根本教法をそのまま受けつぐものであるというわたくし
の論拠もまた、実にここにあるのである。わたくしがI章の七節で述べた文章を思い起こしていた
だきたい。仏陀は。バラモンの農夫にこう答えている。
  「信心は種子、苦行は雨、智慧は幄と鋤である」

 六年の苦行のあと、仏陀は智慧の行に入った。密教はその「智慧の行」を持っているのである。
 まさしく密教こそ、仏陀の根本教法をそのまま受けつぐものというよりほかないではないか。
では、その智慧-一切智智を完成する密教の行とは、いったいどのような行なのか?
その前にわれわれはもう少し一切智智について知らねばならない。
六-凡夫の意識と仏の智慧
 一切智智とはどんな智慧かというと、それは五つの智慧から成り立っているという。
  一、法界体性智
  二、大円鏡智
  三、平等性智
  四、妙観察智
  五、成所作智
のいわゆる「五智」である。
 空海は、『秘蔵記』の中で、五智を水にたとえ、つぎのようにいう。
  「水性の澄寂にして、一切の色相顕現するを大円鏡智にたとえ、一切の万像その水に影現して無
高無下にして平等なるを平等性智にたとえ、その水中に一切の色相差別照了に現ずるを妙観察智に
たとえ、その氷処として遍ぜざるなきを法界体性智にたとえ、一切の情非情の類、水によりて滋長
することを得るを成所作智にたとう」
 少し説明を加えよう。
 一、法界体性智―法界を体性とする智慧、つまり、法界に普遍する智慧である。ゆえにそれは
智慧の本体であるから、他の四智の総合であり、全体である。法界とは、梵語のダルマーダートウ
の訳で、元来は、われわれの意識の対象となるもの、という意味であるが、密教では、この全宇宙
を法界という語であらわすのである。そこで、われわれはこの智慧によって宇宙の真理を理解体得
することができるのである。
 二、大円鏡智’i法界の万象を如実に顕現する智慧である。万象を如実に顕現する智慧とは、そ
の実相を知る智慧である。唯識学派がいうように、われわれが見、われわれが知る存在はすべて仮
構されたものである。その仮構されたかなたにある実相をありのまま知る智慧である。その智慧を、
清浄にして円満(完全)なる鏡にたとえていったものである。
 三ヽ平等性智―一切諸法の根本におげる平等なる拙抄知る智慧である。宇宙の実在はヽ千差万
別のすがたをもってあらわれているが、その存在を存在たらしめている根本の力(法則)は一つである。この、存在の原理を知る智慧である。
あって、べっべつのものではない。即ち平等なるものである
 ている相、あるいはわれわれとの関係においてあらわれる相は于迫力別てある、その関係を見ぬく
四、妙観察智―存在するものはすべて一つの法則によって存在するのであるが、そのあらわれ
                                       .― 
智慧である。
 五、成所作智―所作(活動)して事業を成ずる智慧である。一切諸法において万物の実相を知
り、平等にして差別をあらわす宇宙の原理を体得するものは、一切法において自由であり、自在で切法において自由自在であるから、なにごとをなしても自由自在である。こ
ころのまよにげ肘である。
 以上が一切智智の解説である。理解されたであろうか、というと、あなたはこういうかも知れない。
  「理解どころか、かえってわからなくなってしまった」

 たしかに、これでは、結局、仏の智慧は甚深微妙・難解難人で凡夫の理解できるものではないと
いう『法華経』の七種の智慧と同じではないか。『法華経』は七種、これは五種のちがいだけ恰、
いっていることはほとんど同じである。表現が多少ちがうだけだ。むしろ『法華経』のほうがわか
りやすく説いている。しかしいずれにせよ、われわれの想像を絶する途方もない智慧といわねばな
らない。この智慧をどうやってわれわれは身につけるのか、とうてい信ぜられることではないので
ある。いったい密教はどのようにしてそれを可能にするというのだ。まるきり雲をつかむようなは
なしとしか思われないではないか。
 が、まるきり雲をつかむようなはなしでもないのである。ひとつの手がかりがあるのである。そ
れはなにかというと、
 大円鏡智とは、われわれが持つ第八ア上フヤ識を、ある行にょって転換させたときに生ずる智慧
だというのである。
 また、
平等性智とは、われわれの第七マナ識を、ある行にょって転換させることにより得る智慧たとい


 また、
 妙観察智とは、第六意識を、ある行によって転換するときにあらわれる智慧だという。
 また、
 成所作智とは、前五識を、ある行によって転ずるときに発する智慧だという。
 また、
 法界体性智は、第八ア上フヤ識より’さらに深奥にある第九アンモラ識を転換させたとき、おのず
から獲得する智慧だという。
 とすると、アンモラ識はとにかくとして、第八ア土フヤ識、第七マナ識、第六意識、前五識、い
ずれもすべて、われわれ凡大がだれでもすべてひとしく持つところの意識である。けっして雲をつ
かむようなはなしではない。問題は、いったいどのような行、どのような方法手段で、凡夫の持つ
これらの意識を、仏の持つ五智に転換させるのか、ということになる。そうではなかろうか、問題
はその方法手段だ。密教はどのような方法手段を持つというのか。そんな方法、かおるのか? ある
のである。