随眠という名の無意識層

随眠という名の無意識層
第三章
欲求不満と危惧に対してはげしい怒りを発する心である。
 瞑は、わが心に背く事あれば(それが)善事にても必ず怒る心なり。(唯識大意)
 三、無明上凝ともいう。
 無智のこと。愚迷。もろもろの道理に迷う愚癈の心作用。ものの道理のわからぬこと。われわれの
存在の根底にある根本的な無智。すべての煩悩の生ずる根源とされる。
 境を照らす明なしというところから無明と名づけ、事物の道理を決断する智なしというところから
無智と名づけ、事物の道理を彰了する顕なしというところから無顕とも名づける。
 三、慢
 自分に傲って他を軽蔑する心。
 慢というは、わが身を侍んで人を役り、少しも謙下(へりくだる)なき心なり。(唯識大意)
 なお、慢には、七慢・八慢・九慢などの分類がある。つぎに七慢をあげておく。
 ’七慢
 1 慢=自分より劣った者に対してすぐれていると自負し、同等な者には同等であると高ぶる。
 2 過慢=同等の者に対してはすぐれていると慢じ、すぐれた者には同等であると慢ずる。
 3 慢過慢=自分よりすぐれた者に対し、逆に自分がすぐれているとする。
 4 我慢=自分の身心を永遠不変の我であるとたのむ。
 5 増上慢=さとりを得ないのに得たとする。学問・知識などその奥に達していないのに達したと

随眠という名の無意識層
第三章
欲求不満と危惧に対してはげしい怒りを発する心である。
 瞑は、わが心に背く事あれば(それが)善事にても必ず怒る心なり。(唯識大意)
 三、無明上凝ともいう。
 無智のこと。愚迷。もろもろの道理に迷う愚癈の心作用。ものの道理のわからぬこと。われわれの
存在の根底にある根本的な無智。すべての煩悩の生ずる根源とされる。
 境を照らす明なしというところから無明と名づけ、事物の道理を決断する智なしというところから
無智と名づけ、事物の道理を彰了する顕なしというところから無顕とも名づける。
 三、慢
 自分に傲って他を軽蔑する心。
 慢というは、わが身を侍んで人を役り、少しも謙下(へりくだる)なき心なり。(唯識大意)
 なお、慢には、七慢・八慢・九慢などの分類がある。つぎに七慢をあげておく。
 ’七慢
 1 慢=自分より劣った者に対してすぐれていると自負し、同等な者には同等であると高ぶる。
 2 過慢=同等の者に対してはすぐれていると慢じ、すぐれた者には同等であると慢ずる。
 3 慢過慢=自分よりすぐれた者に対し、逆に自分がすぐれているとする。
 4 我慢=自分の身心を永遠不変の我であるとたのむ。
 5 増上慢=さとりを得ないのに得たとする。学問・知識などその奥に達していないのに達したと
幻さて、いま、根本誌眠(根本煩悩)について解説した。
 日常生活の上に、日夜たえまなく生起するわれわれのこころの動きについて、じつに詳細かつ精緻に
観察していることにおどろきを感じるのは、わたくしだけではなく、おそらくあなたも同感であろう。
 しかし、古代仏教における人間のこころの観察分析は、この程度のものではないのである。
 根本煩悩に附随してつぎつぎと起きるこころを「随煩悩」という名でとらえて、さらに精密に論ず
るのである。
 さきで、「煩悩の十事L(十の性質)が説かれている。すなわち、一、根本を堅くすること。二、相
続を立すること。三、自田を治めること。四、等流を引くこと。五、自具を摂すること。六、識流を
導くこと。すべて、(根本)煩悩がひとたび目ざめて動きはじめると、つぎつぎといくつかの煩悩が連
鎖反応を起こす性質のあることを示している。この連鎖的に起動する煩悩を「随煩悩Lといい、論の



  随 煩 悩

第四章、随煩悩でこう説き明かす。
   『随眠は、既に説きつ。随煩悩は云何。
   頌にいわく、
    随煩悩は、此の余の、染の心所の行羅なり。                       
   論じていわく、この諸の煩悩を、亦た随煩悩と名く。皆、心に随って、悩乱の事を為すを以ての故なり。
 復た、此の根本煩悩の外に、余の
ヽ諸の根本煩悩に異なる染汗の心所の、行蔭に摂するものあ タ
  り。根本煩悩に随って起るが故に、亦随煩悩と名け、煩悩とは名けず。根本に非ざるが故なり。』
 その随煩悩をあげてみよう。
 ただし、随煩悩の種類のあげかたはいくつかあって、一概にはさだめがたい。ここでは、倶舎の「五
位七十五法Lによるものと、後世の唯識大乗によるものとの二つをあげて、解説したい。
 倶舎では十九種類である。
 大煩悩地法として、
 放逸・服怠・不信・悟沈・棹挙の五、
 大不善地法として、
 むざん む考ヽ                         ’
 無噺・無情の二、
 小煩悩地法として、
 ふん ぷく けん しっ のう がい こん てん おう きよう
 忿・覆・樫・嫉・悩・害・恨・諮・匝・僑の十、
 不定地法として、
 睡眠・悪作の二、
以上である。
 唯識においては、

随眠という名の無意識層
第三章
 忿・恨・悩・覆・脱・諮・僑・害・嫉・樫の十を「小随惑」とよび、
 無晰・無愧の二を「中随惑L、
 不信・爾怠・放逸・悟沈・棹挙・失念・不正知・散乱の八をI「大随惑」とよび、この三種二十の惑
を、随煩悩と名づけるのである。
 わたくしは、倶舎の不定地法による睡眠と悪作を除いて、唯識の失念・不正知・散乱を入れて、
「二十随煩悩Lとする。なぜかというと、不定地法は、かならずしも煩悩とはいわれないからである。
睡眠は善・不善・無記の三性に共通するものであるし、悪作も善・不善の二性に共通して善性のもの
もあるからである。もちろん、倶舎が随煩悩にとりあげている睡眠と悪作は、睡眠の不善・有覆性
と、悪作の不善性の、煩悩といわれ得るものをとりあげているのであるが、わたくしは、考えるとこ
ろあって右のようにするのである。
 では、随煩悩を解説しよう。
  随煩悩解説
1 忿
いかり。
自分の心にかなわぬ対象に対して怒りの情をいだき、刀杖等をとるにいたる、いわゆる短気の心作


用をいう。このこころは、根本煩悩の「賦」の等流(つづいてのちにあらわれ出た同類のもの)、つ
まり瞑にしたがって出てくるこころなので、眠は先払いのごとく、忿は後押しの如し、といわれる。 タ
 忿というは腹を立てて杖をとって人を打たんと思うほど怒る心なり 0(唯識大意)
 2 恨
 うらみ。
 敵意がひき続くこと。
 先に忿怒したことに恨みをむすんでいつまでも解けず忘れぬ心作用をいう。
 恨というは、人を恨むる心なり。恨みを結ぶ人の、残念口惜しとて押さえ忍ぶこと能わずして心の
内つねに悩むなり。(唯識大意)
 3 諮
 へっらう。
 自分の意志をまげてこびへつらい、人にとり入ったり、あるいは理屈をつけて他をおとしいれたり
する。
 諮曲といって、心を曲げて実の心をあらわさず、他を籍絡せんがため・に表面柔順をよそお、うなどす
の心を取り、あるいはわか
り。(唯識大意)

           だま                          かた
諮というは、人を隔くらかし迷わさんために、時に随い事にふれて奸ましく方便をめぐらし、人
               あやまち
をかくす心なり。世の中に詔曲の者というは、この心の増せる人な
 4嫉
 ねたみ。嫉妬。
 他人の幸福や成功を喜ばず、妬忌して憤酒する心。
 嫉というは我身の名利を求むるが故に人の栄えたるを見問して深くねたましきことに思うて喜ばざ
る心なり。(唯識大意)
 5 悩
 なやむ。
 憤憑や怨恨や憂悶にとらわれて使悩する。
 また、自分の考えを固執して捨てず、他人の忠告や諌めを入れぬ頑迷な心をいう。原語呂ぼ回
を、真諦は「不捨Lと訳しているが、これは、自分勝手なせまい見解を固執して捨てず、そのために
いろいろと悩みの生ずることをいうのであろう。                         タ
 悩というは腹を立て人を恨むに依って僻み戻り、心の中つねに安からず、ものを言うにその言かまびすくして険しくいやしく腹ぐろく毒毒しき心なり。(唯識大意)
 6 覆
 責任のがれ。
 自分のおかした罪やあやまちをおおいかくして偽陥する心。
 自分の地位や名誉、あるいは体面を失うことを恐れて、自分の非を隠蔽する心。
 覆というは名利を失わんことをおそれて、わが罪あやまちを覆いかくす心なり。隠す人は必ず後に
悔み悩みあるいは悲しむことあり。(唯識大意)
7 樫
ものおしみ。むさぽり。樫惜。樫貪。吝嗇。
ものや知識、技術などすべて自分の持っているものに執着して、他に頒つことを吝しか心。
樫というは財宝に敗着して人に施す心なく、いよいよ貯えんとのみ思う心なり。(唯識大意)
8 唐
欺隔。他人をあざむきたぶらかすこと。
無徳なのに有徳のように、下劣のものを優秀なもののように装って、他人を惑わす詐偽の心作用を
いう。裏切り、設計の能力。徳がないのに敬われようと欲する人。
 斑というは、名利を得んがために、心に異なる謀をめぐらして、矯ましく徳ありと現わす偽りの
心なり。世の中に証惑者というはこの心の増せる人なり。(唯識大意)
 たぶらかす、不実の語をいうなり。(『無門紗』)
 9 僑
 おごり高ぶり。自らおごり高ぶること。自己満足。
 自分の財産・地位・才能・学力・容姿などをほこり高ぶる心。
 僑も幔もともにおごり高ぶる心であるが、僑は自分の性質(美貌や若さや才能や血統、学識など)
をすぐれたものと考えて、自己に執着する心のおごりであるのに対し、幔は、自分は他人よりもすぐ
れていると妄想して、他人に対して誇りたがる心のおごりである。要するに、慢は他人を意識して起
こすが、僑は他人を意識せずに起こすものである。
 僑というは、わが身をいみじく盛なる者に思うておごり高ぶる心なり。(唯識大意)
 ただ自分のよきことのみをおもい人を見くらべず、なにごともおのれがよいとはこるが僑なり。
(『香月』)
1 害



 傷害。害意。人をきずつける心。
 生けるものに危害をくわえることを快しとする心作用。
 同情心に欠け、人の行動や生活をきずつけ妨害する。
 害というは、人を哀れむ心なく情なき心なり。世の中に慈悲性もなき者というは、この心の増せる
人なり。(唯識大意)
1



 反省心のないこと。はじらいのないこと。自分自身にたいして、罪を罪として恥じないこと。さか
うらみ。
 自分自身に対し罪や過失や不徳を恥ずる心のないこと。(自ら省みて恥じるのを噺・他に対して恥
じるのを愧という。無晰・無愧はその反対である)
 無噺というは、身にも法にも恥じずして、善根を軽しめ諸の罪をつくる心なり。(唯識大息)
12 無愧
恥じ入る心のないこと。破廉恥なこと。他人に対して恥じないこと。・
無愧というは、世間の見聞にも恥じずして、諸の罪を崇むる心なり。(唯識大意)
 13 棹挙
 軽噪。がるはずみ。とりとめのない心。心が浮動して静まりのないこと。心が寂静でないこと。軽
挙妄動してつねに落ちつかず燥泄の生活を送る。
 棹挙というは、動きやすくさわかしき心にて物にのりやすくおだてられやすい心なり。(唯識大意)

 14 悟沈
 沈唇。心のめいること。ふさぎこむこと。
 不活発な気質、心の不活動性。心を暗く沈ませる心作用をいう。気分が陰唇で善事をなすにたえら
れない性である。人をして憎惰、怠慢ならしめる。要するに気分が重く暗くてやる気がおこらない。
ことをおこなうにあたって、心が巧みでない。適応性がないのである。
 悟沈というは、重く沈み溺れたる心なり。9 重として目のくらむようになるなり。(唯識大意)
 無明と悟沈と相似てわきまえ難し。無明は閤く迷えり。重く沈み溺れたるにあらず、悟沈はただ闇
く迷えるにあらずして重く沈み溺れたるなり。(唯識大意)
15 不信
信のないこと。
実有・有徳・有能であることに対するヤ儲ず。
心が乱れさだまらず集中できない。知能がはたらかない。
心乱というは、心を散らし乱す心なり。この故に散乱と名づく。(唯識大意)

 心がきよらかでなく、よいことや正しいことを見聞しても、邪推したり歪曲してとって、信解しな
い。したが’つて悪行や邪行を楽しむ。
 不信というは、貴き目出たき事を見聞しても忍び願う心なくして、稿れ濁れる心なり。かかる人は
多く御怠なり。(唯識大意)
 16 謝怠
 怠惰。怠り。なまけて励まないこと。やる気を起こさない心性。
 仏道を修行するのに力を尽くして励まないこと。台心って教えを奉じないこと。釈尊の臨終のことば
は「つつしんで御怠することなかれLであった。
 世間のなぐさみ、囲碁将棋などして、善事をおこたるはみな謝怠なり。すべて善事をおこたるを脚
怠という。(『香月』)
 俗怠は諸の善事の中に解り嘲き心なり。かかる人は又多く不信なり。(唯識大意)
17 放逸
わがまま。放縦。なおざり。気ままに遊ぶこと
責任感に欠け、勝手気ままに行動する。
不注意で軽率、心が散役である。
放逸というは、罪を防ぎ善を修する心なくして、ほしいままに罪を遣る心なり。(唯識大意)
 18 失念
 飲酒などのためにぼうっとして自制心を失うこと。
 飲酒だけに限らず、趣味・道楽・かけごと・異性などのために心を散乱させて自制心を失ったり、
対境をはっきり記憶できなくなるのは、みなこの心である。
 失念というは、取りはずし物を忘るる心なり。かかる人は多く散乱なり。(唯識大意)
19 不正知
正しい認識ができない心。不完全な認識。
不完全な自覚―-なすべきこと、あるいはなすべからざることをわきまえない。
対象を正しく把握・理解せず、歪曲したり誤解しながら、それが正しいと思っている。
不正知というは、知るべきことをあやまって解す。かかる人は事を毀ち犯すなり。(唯識大意)
20 散乱
心の拡散。心が乱れ定まらないこと。
凡夫の心がつぎつぎと絶えまなくその対象に移し流され、一刹那もとどまらないこと。



 どうであろうか?
 まことにくわしく分析し尽くしたものではないか。
 わたくしは、むかし、はじめてこれを目にしたとき、一読、思わず、心から赤面したことをおぼえ
ている。ここにあげられているこころがすべて自分のなかにあり、しかもそのうちのいくつかは現に
動いていて、自分がそれに動かされつつあることをはっきり自覚したからであった。それを自覚した
刹那、そのこころのままに動かされて行動したとき、その結果がどういうかたちになってあらわれる
かが直感され、わたくしはそのこころをなんとかおししずめ、他のべつな方向に向けるべく努力し
た。それがわたくしの人生の一つの転機をなした。以来、わたくしはこの随煩悩の一覧表を作製して
所持し、時にふれ、目にすることにした。とくに自分の持つ因縁と相応してつよくあらわれやすいこ
ころは赤字でしるした。不徳のわたくしはこれにより少しでも自分を改造しようと決心したのである
(根絶する修行をはじめたのはもっとあとのことである)。
 しかしいまでもわたくしはこの一覧表を目にするとき、内心憤死たることしばしばである。
 あなたはどうであろうか?
 これらのこころがわれわれを形成しているのである。
 これらのこころにみたされ、これらのこころの動くままに行動したとき、その結果がどのようなか
たちであらわれてくるか、どう考えても、それは決して「このましくよきものLであるとは考えられ
まい。自分にとっても周囲にとってもそれはけっしてこのましくよきものを形成しはしない。しかし
われわれはこのこころに日夜動かされつつあるのである。大なり小なりこれらのこころがわれわれを
動かし、それの累積がわれわれの人生となり、われわれの環境をかたちづくっているのである。それ
はだれしも否めない事実ではないか。それを仏陀は「業」とよぶのである。
 根本煩悩に十、随煩悩に二十、じつに精緻に分析したものである。
 しかしこれは決して単なる心理論や心理学ではないのである。それはわれわれの存在の構造を示す
ものなのだ。この構造をどう改革するか? それが仏陀の教法である。この構造を改革し、さらには
この構造を大きく飛越しようとするのが仏陀の教法なのである。だから精緻きわまる心理分析も単な
る心理論ではないのである。そこでI-、重大な一つの論争がなされている。
 それは、煩悩と随眠との関係についてである。
 ひとロにいうと、煩悩はすべて意識的であるのか、それとも、習気(習慣的余力)としての無意識的
煩悩もあるのかという問題である。専門用語でいうと、随眠はこころと相応するのか、しないのか、
という問題である。

 それはアビダルマ教学史上に有名なヴァスバンドウ(世親)とサンガバドラ(衆賢)との論争で、
世親のあらわした『阿毘達磨倶舎諭』に対し、衆賢は『阿毘達磨順正理論』を以て世親の説を論破し
ようとしたのである。
 世親の立場は、随眠は心と相応するのでもなく、不相応でもない。煩悩の眠る状況、すなわち無意識
的状態が随眠であり、それが覚曜して意識的状況にあるとき、貳とよばれるのだとする(前出の通り)。
 これに対し、衆賢は、随眠と煩悩とはおなじであるとする。たとえば、貪随眠を貪即随眠と考え、
貪なる煩悩と離れて存在する貪の随眠とは考えないのである。その論拠は煩項になるからここには挙
げないけれども、要するに、衆賢は随眠を以てどこまでも意識的であるとみるわけである。それは、
われわれの生活活動をもっぱら意識的活動とみることになる。これにたいし、煩悩を、意識的活動と
しての纒と、無意識状態としての随眠とに分けて考える世親の立場は、人間の無意識的心理活動に大
きな意味をみとめようとするものであり、この両者には決定的な相違があるわけである。
 それはまさに決定的な相違であった。
 そんなことくらいどっちにしてもたいしたことはないじゃないかと思われるかも知れないけれど
も、そうではないのだ。この相違はまさに決定的な相違であったのだ。
 というのは、この論争の結論は、ただちに、仏教における実践法1-つまり修行法にかかわってく
ることになるものだったからである。
 たしかにこの両者では修行法がまったくちがってくる。だからそれはまさに決定的な相違であった
のだ。事実、仏教はここから大きく分かれて、べつべつの道を歩むことになるのである(世親のこの
立場はやがて種子論となり、つづいてアーラヤ識を生み出し、最後に唯識大乗をうち立てることにな
る。一方、衆賢の立場は、ついに、小乗といわれる「薩婆多部L〔一切有部〕のワクから一歩も出る
ことなくおわるのである)。だから、この、世親と衆賢のそれぞれの立場は、仏教の二つの立場をそ
のまま代表することになるわけである。と、そういうと、あなたはここで首をひねるかも知れない。
 それはおかしい、二人の意見の相違は相違として、いったい仏陀ご自身のご意見はどうなのか?
仏陀はどう教示されているのか?
 それほど重大な問題にたいして、仏陀はなにも教示されておられぬのか? と。
 それはたしかにその通りだ。はっきりした仏陀の御教示があれば、世親も衆賢も論争して意見が二
つに分かれたままということはないはずである。では、仏陀は明確な教示をなされていなかったのか?
 ひと口でそれに答えることはむずかしい。教示されていたともいえるし、教示されていなかったと
もいえるのである。
 そういうと、あなたはまたいうであろう。
 仏陀の教法、仏陀の教法、というが、それでは、仏陀の教法とはいったいなにをよりどころにした
ものなのか? と。われわれはなにを以て仏陀の教法とすればよいのか、と。
 たしかにそれはこの上なく重大なことである。それを明確にしないかぎり、仏陀の教法などと口に
することはできまい。では、根本に立ちもどって、それをはっきりしようではないか。