密教入門 求聞持聡明法


密教入門
求聞持聡明法

 真言密教に「虚空蔵菩薩求聞待聡明法」略して「求聞持法」と名づける修行法がある。
 かつてこの法を修行して大天才になった空海は、その著『三教指帰』にこう書いている。
  「ここにひとりの沙門あり。余に虚空蔵求聞持の法を呈す。経にいわく、もし人、法によりてこ
の真言一百万遍を誦すれば一切の教法文義暗記することを得んと。大聖の誠言を信じ、阿国大滝の
嶽に登りよじ、土州室戸の崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す」

  『元亨釈書』によると、満願の日、明星飛んで空海のロに入り、かれは聞持(記憶)の悉地を得
たとある。
 また、この法を伝える経典『仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』は、「この法成ず
ればすなわち聞持の力を得て、一たび耳目をふるるに文義ともに解す。これを心に記して永く永く
遺忘することなし。諸余の福利無量無辺なり」と説く。
 私は、かつて、この法を、自分の体験にもとづき、「目がカメラになり、耳はテープレコーダー
になる」と表現した。
 実際に、この法にょって訓練した頭脳は、一度、目にし、一度、耳にしたことは、ぜったいに忘
れぬ記億機構を持つようになる。しかもそれはただ単になんでもおぼえてしまうというだけではな
く、創迫力を飛躍的に増大させ、発想が常人とまったくちがうようになる。まさに、大脳の生理機
構、が一変してしまうのである。
 ただし、ことわっておかなければならぬことは、この法はしかし即身成仏そのものの法ではない
ということである。これは、即身成仏を可能にする頭脳をつくり出すのである。「言説不可得」と
いう、言葉や文章では説くことも出来なければ理解することもできない仏のさとりと智慧を、完全
に把握理解できる頭脳をつくり出すのである。密教のすばらしさは、直接、即身成仏の法にアタッ
クしても理解できない頭脳を、それが理解出来るようになる高度の頭脳につくりかえてくれる前段
階的技術を持っているということである。それがこの求聞特法である。なんとすばらしく、かつ用
意周到であることか!
 五智といい七智といい、いくら経・論を読んでその解説をくりかえし見ても、所詮、その概要を
知るだけで、五智・七智が身につくわけではない。いや、その概要さえも知ったとはいえないであ
ろう。ただその概要をつたえる文字を暗記するだげである。
 わたくしは、『大目経』も『金剛頂経』も、またその他のすべての密教の諸経典、また、「金剛界
法」、「胎蔵法」その他すべての修行法も、ふつうの頭脳でいくら読誦し、修行をくりかえしても、
おそらく効果らしいものはないだろうと思っている。よほど頭のよい人でも、せいぜい経文を暗記
し、修行法の次第や観想文を暗誦するだけであり、それで即身成仏した「つもり」でいる程度では
ないかと思っている。先ず、きびしい苦修練行により心身脱落し、つづいてその頭脳をつくりかえることである。かつて仏陀がなし、ナーガールジュナ、
に、だ。そうでなければ、密教は、所詮、観念の遊戯、
 それを救うの、か、この求聞持聡明法である。
ニー求聞持聡明法・その秘めたる可能性

アサンガがなし、空海、覚鍍がなしたよう
自己満足の域を脱せぬことになろう。
 求聞持法はいくつかの可能性を持つ。
 その最大のものが、前の章で述べた即身成仏を成就させることであるが、そのほかにも、この法
は、人間を開発・改造する数多くの可能性を秘めている。
 この法は、伝えられているような、ただ単に記憶力が増強してものおぼえがよくなるといった程
度のものではないのである。尤も、修行のしかたでは、その程度で終る場合もあるであろう。しか
し、修行・訓練のしかたにより、想像を絶する能力を身につける可能性を持っているのである。い
ままで、この法は、密教の専門家でさえ、伝説的な呪術まがいのものとしか見ず、あまり重視して
いなかったが、それは認識不足というものである。この法は、無限の可能性を持つ。その可能性の
大部分は、まだほとんど秘められたるままである。われわれはこれを発掘して世に出さなければな
らない。この法にょって十分に訓練されたとき、人類はおそらく生まれ変わってしまうだろう。か
れらが、どんなに高度の知性を持ち、どんなにゆたかな感性を持って、どんなに進歩した社会を創
造するか、想像するだけでもわたくしは昂奮を禁じ得ないのである。
 わたくしは、求聞侍読を修して、これを成就した。求聞持法を成就してお前程度のものかといわ
れたらT言もないが、そのときわたくしは四十歳を越していた。もしもI、二十歳前後でIい
や、三十歳前後でもよい、その年齢でこの法にふれていたら、いまごろどれほどすばらしい仕事を
しているだろうかと、過去をかえりみてわたくしは切歯捉腕する思いである。もしも十歳代でこの
法を体得していたら、わたくしは大天才になっていただろう。それを思うと、いたずらに怠惰と汚
濁のうちに消え去った過去の時間が心から悔やまれるのだが、しかし、その怠惰と汚濁のゆえにこ
の法にふれる機縁を得たことを思えば、それもまた天命であったのであろうし、それにまた、たと
え不惑の年を越してでも、この法にふれ、仏天の御加護を得て、これを成就することができたわが
身の果報を、心から感謝するのである。そうして、出来るだけ多くの人びとに、この法の存在とそ
の真価を教えてあげなければならぬと思うのである。そのことに全力をあげることが、わたくしに
課された使命であり、かつ最大の報恩謝徳の行であると思うのである。
 この章では、この法についてのわたくしの体験と私見を述べることにしよう。
         わたくしの求聞特法修行には、指導を仰ぐ師がいなかった。文字通りの独習で
 求聞持法のワナ  ある。手に入るかぎりの経軌・口伝・文献を集めて、とり組んだ。
 これがかえってよかったと思う。
 というのは、この法を成就した人師はめったにいない。はっきりいって絶無に近いのである。法
を体得していない人を師としても無意味である。無意味だけではなく、害のある場介がある。先ず
第一に、見当はずれの修行をさせられるおそれがある。つぎに、いたずらに過去の伝統や風習に縛
られて、自分なりの工夫をすることができない。尤も、わたくしはそう思って師につかなかったわ
けではない。不幸にして、そういうお方に御縁を得ることができなかったのである。しかし、結果
からみて、かえってそれがよかったと思っている。自分の思うまま、自由に修行することができた
からである。
 但し、このわたくしのやりかたは、これからこの法を修行しようとする人たちに、寸十めること
                                   

はできない。やはり師につくべきである。尤も、その師は、この法を完全に成就し体得したひとで
なければならぬこと勿論である。ただ修行法を知っているというだけでは、この法の師となる資格
、がないのである。なぜならば、昔からの修行のしかたそのものが間違って伝えられている場合心心るし、時代に適応しなくなっている場合もあり、かつまた修行者の個人差の問題もある
法を体得していないひとは、それらのことについて全く知石ところがない。気がつかないのである。
ただ昔から伝えられていることを、そのままくり返しているだけに過ぎない。われわれが自動車の
運転技術を習得しようとする場合、われわれは実際に自動車を運転することが出来るベテランを指
                                      導員として選ぶであろう。ただ単に運転のしかたを知っているというだけのひとを決して選びはし
たい。それと同じことである。それからもう一つ、法を成就した指導者がぜひとも必要とされる重
大な理由かおる。それはあとで述べる。
 師なくしてこれを成就することのできたわたくしは、実に幸運に恵まれていたのである。それは、
ラッキーであったという一言に尽きる。偶然的な幸運が連続した。そのことについてはまたあとで
述べるが、この法を師なくして成就するのには、先天的に一種の特異体質である必要かおる(だか
                  
らこの侈行り救初の段附はその特共体質をつくり上げる方法が連続すると思えばよい。ところが、この法を体
得していないひとはそのことを知らず、また経軌にはそういうことはいっさい記してない。自分で工夫して体
得するよりほかないのである)。この法を成就したひとは一種の特異体質になっている。それは、特異
体質をつくり上げる修行過程を経るのだから当然のことなのだが、師なくしてこの法を体得するた
めには、最初からすでにその特異体質(または特異性)を持っていなければならぬのである。いう
ならば、その特異性が、この法体得のための素質というものであろう。その素質者が全力をあげて
この法の修行にうちこみ、さらにいくつかの幸運に恵まれたとき、はじめて成就するのである。そ
ういう素質を持たないものは、この法を体得した指導者に就いて、最初の段階からレ″スソを受け
なければ、ぜったいといっていいほど成就することはできないであろう。
 というのは、この法にはいくつかのワナがあって、修行者はそのワナを一つ一つ見抜いてこれを
乗り越えてゆかねばならない。それをすることによって、記憶と知能の機構が飛躍的に変化してゆ
くのである。そのワナに気がつかない修行者は、いつまでもおなじところにいる。そこでお心しろ
いのは、修行者にI、二の質問をしてみて、その答や反応を見聞すれば、その段階の程度、かすぐに
わかるのである。だから、この法をほんとうに体得しているか、していないかすぐにわかる。ちょ
うど、禅宗の公案のようなものだといえばおわかりであろう。
 要するに、師なくしてこの法を成就するのには、一種の特異体質であることが必要だということ
である。わたくしはその特異体質を持っていた。おそらく、弘法大師空海もそうであったにちがい
ないとわたくしは思っている。

つかないということである。以前はこういうことがなかった。二日、三日の徹夜が連続しても内臓
は平気であった。むしろ食欲がどんどん出てきて、からだが予不ルギーの柚給を要求しているのが
よくわかった。この頃は、脳のほうが三~でも四~でも活動を続けようとしているのに、内臓のほ
うが疲れを訴えるのを感じるのである。ことに肝臓にその感が強い。これは、年齢のぜいもあるか
も知れないが、それよりも、この頃、わたくしの脳がいよいよエスカレートして突っ走るためのよ
うでもある。わたくしが「疲れた」という場合、脳が疲れたのではなく、疲れを知らぬ脳に酷使さ
れた内臓が上ける悲鳴なのである。そういう場合は、眠らずに、三十分から一時間くらい横になっ
て無心定に入ってやると回復する。あるいは、十五分くらい眠ってやる。わたくしは、いつ、どこ
ででも時間をきめて眠ることができるので、十五分くらい眠ってやるのである。そういうときのわ
たくしの睡眠は極度に深くなるので、十分の睡眠、かふつう人の一時問、二時問に匹敵するから急速
に回復するのである。そんな短い時問の休息さえ、仕事に熱中しはじめた求聞特脳はいやがるので
ある。
 この、脳と内臓とのアソ、、バランスを、求聞持法修行者は注意しなければならぬのである。だから、
求聞特法の修行にあたっては、きびしい肉体の鍛練と、食生活の規制による内臓の強化が欠かせな
い。これを怠ると、ハイ≒パワーのエンジンを績んだポンコツ車の悲劇が起きる。求聞持法が成就
される直前になると、脳が勝手に高速活動をはじめて、何日閥心眠れないような状態が起きる。、眠れずに、わたくしは発狂したのかと思った。そう
と内臓
もある川れるようであるが、それだけではとうてい求問特訓についてゆけないのである。
 それに~た、この、脳と肉体のアンバランスはある種の精神的抑圧を生ずる。それに耐えて脳と
肉体をコントロールしてゆくのには、強力な意志が必要であり、そのために、鍛練は肉体だけでは
なく、精神面でもハードなトレーニングが必要なのである。
 ところで、この疲れを知らない脳のために困惑するのは、わが内臓諸君だけではない。宗族や身
近かのひとたちも同様である。サイクルが仝くちがうので、一締に生活することができないのであ
る。何昼夜でもぶっつづけで仕事をしていて、真夜中でも家の中をうろつきまわって用事をいいつ
け、食事も不規則、ときてはとても一緒に生活は出来ない。だれか、かいったように、「怪物とはと
ても一倍に暮らせない」のである。将来、求聞持法修得者は、修得者だけの集団生活をいとなむこ
とになるだろう。

 記憶の神秘‐i前世の記憶再生?  わたくしは、さきに、知識は学習によって習得されるのである
                といった。学習しないものは知識にならないといった。ところ
が、求聞特法を成就すると、学習しないことまで知っているようなことがしばしば起きる。
 わたくしは、最初めんくらったものである。全く学んだことのないはずのことが、つぎっぎと脳
の中に浮かんでくるのであり、はじめのうち、求聞持法は学ばないことまで知ることが出来るのか
とびっくりしたものである。しかし、問もなく、そうでないことがわかった。それらは、ずっと以
前、わたくしの記憶に入っていたものなのである。ただ、それらは、わたくしの気がっかないうち
に、記憶の中に入っていたり、あるいは、学習したということを忘れてしまっていたのである。

                                        
 われわれが無意識のうちに入ってくる情報や知識は無数にある。それらは、半睡眠状態のうちに
でも入ってくる。そうしてそれらはすべて脳の記憶の場におさめられてしまうのである。ただ、モ
れらの記憶は、多くの場合、必要に際して表面意識とつながらない。それ、か、「忘れた」という現
象である。ところが、未聞特法は、必要に際して、いったん記憶の場に入った情報はすべて表面意
識と連結させる力をあたえるのである。
 だから、求聞持法は、いわれているように、「なんでも記憶する」のではなく、「なんでも思い出
す」法なのである。
 そうして、わたくしが最もびっくりしたのは、未聞特法を修得してからのちに記憶したことを
 「なんでも思い出す」のではなく、求聞特法修得以前の、極端にいえば生れた郡汐からこのかた記
憶の場に入っていたものはすべて、「なんでも思い出」してしまうのである。
 人間の記憶というものは、脳外科の大家、ペソフ″Iルド博士の実験その他でわかったように
(拙著『変身の原理』参照)、いったん記憶の場に入ったものは永久に消えないものである。ただ、長
い時問か経ったり、あるいは無意識のうちに入ったものは、記憶の場の下の層に沈んで思い出せな
くなるだけである。求聞持法は、思い出せなくなるということがなくなるのである。わたくしが、
全く学習したおぼえのないことを、つぎっぎと思い出してびっくりしたのは、以上の理由からであ
った。そうして、同時に、この体験にょって、わたくしは、『求聞持聡明法経』に説かれている「こ
の法成ずればすなわち聞持の力を得て、ひとたび耳目をふるるに文義ともに解す」というほんとう
~‥一味かわかったのである。それまでは、はじめて目にする文字が読め、その文章の意味が理解で
きてしまうなどとはあり仰ないことだとわたくしは思っていたのだ、か、これがまさしくそのことな
のだなと思いあたったのである。過去の知識が総動員されて問題を解いてしまうのである。そうし
て、その過去の知識というのが、生まれてこのかたの過去だけではなく、生まれる以前の過去まで
もふくまれているのではないかとわたくしが思いはじめたのは、その頃から、まったくけんとうの
つかない異様な記憶が、つぎっぎと浮かんでは消え、浮かんでは消えしはじめたからであった。全
く見たことのない風景や人物、ときには食べたことも見たこともないはずの果実や魚、食事などの
味がはっきり思い出されてくるのである。それは、多くはぼんやりと出てくるのであるが、時には
実に鮮明に、たしかに数年くらい前に遭遇したのにちがいないという感触であらわれてくる。そう
して、定に入ってそれらの映像を追ってゆくと、ひとつの脈絡あるかたちをとりはじめることがし
ばしばある。わたくしは、これはもう、これらはわたくしの「前世の記憶」にちがいないと思うよ
りほかなくなったのである。
 人間の発生以来の記憶は、すべて大脳の記憶の場にかさめられており、そのうち、古い記憶は、
 「旧皮質」および「古皮質」の、ことに、「海馬」のあたりに秘められているとわたくしは思って
いる。(拙著『密教・超能力の秘密』参照)ふつう、学習されたあたらしい知識は、「新皮質」におさ
められているのであるが、求聞持法は、新皮質の記憶だけではなく、旧皮質から古皮質の部分の記
憶まで、思い出させてしまうもののように思われる。わたくしは、これが、聖者の持つ六大神通力
の一つ、「宿命通力」の基本になるものではないかと思うのだ。
 いや、たしかに「宿命通力」は求闘持法にょって開発されるものに相違ないのである。それに関
うになるのであるが、こういう混乱期に抑圧意識が突出してきて、修行者を思いがけない分裂行動
や、反社会的行動に追いこむのである。だから、修行の過程において抑圧意識をとり去り、純一無
雑な人格をつくり上げるように指導してゆかねばならない。にもかかわらず、古来の求聞持法の修
行法には、このことが全く欠落してしまっている。昔から、求聞持法を修行してやり損なうと精神
病者になるといわれ、また実際に分裂病患者が少なからず出ているのはこのためなのである。修行
者、指導者、ともに心せねばならぬ所以である。
 精薄児童と恍惚老人の知能アップ  釧言門言づ且言言言
成仏を果たす吉天才をつくるために用いられた。
 わたくしはその反対のことをこころみたのである。普通人の知能以下のひとたちをこの法で訓練
して、普通人の知能にまでひき上げようと考えたのである。その結果は非常に有望なものであった。
 わたくしは思ったのである。
 生まれっき高い知能を持つ秀才を天才に仕上げ、すぐれたエリートをつくり出すことも必要であ
ろうが、低い知能に生まれっいた不幸な子供たちの知能を高めて、普通人の水準にひき上げてやる
ことも、それに劣らぬ社会的意義を持つことてはないだろうか、と。
 そうしてわたくしはそのこころみにいどんだのである。結果は有望なものであった。相当重症の
精海児収でないかぎり、かなりな知能の回復・向上が見られたのである。密教はこのこころみを発
り。けなかろうか。
すことも大切であろうが、ひとにぎりの大天才
からくりすことよりも、たとえ大天才にははるかに及ばずともヽ大多数のヽ真のぷご尉を持った
「賢いひと」をつくり出すことのほうが、いま、はるかに必要なのではなかろうか。いや、それを
なすことこそが、ひとにぎりの大天才をつくり出す目的なのではないのか。それは人類社会全体の
知的レベルをひき上げることである。この世の中をほんとうにしあわせなものにするためには、ひ
とにぎりの大天才をつくるよりも、人類全体の知能を少しでもアップさせることのほうが有効であ
るとわたくしは思うのだ。
 わたくしは、人類の不幸はすべて人間が愚かなところに原因があると思っている。人間が愚かで
あるがゆえに、殺し合い、傷つけ合い、奪い合う惨事、が止まないのである。釈迦、キリストをはじ
め、過去に幾人かの大天才があらわれた、か、ことごとく人間の愚かさの中に埋没してしまった。い
まだに人間同士の愚劣な争いは止まない。それどころかエスカレートするばかりである。戦争、闘
争、略奪経済による環境汚染と自然破壊、すべて人類の愚かさが原因である。わたくしはこの法を
人類社会全体の知的レベルの向上に用いたいのである。人間の愚かさは、教育だけでは解決つかな
いものである。それを解決するためには、特殊な方法、か必要である。
 人間はその奥深いところに未発達の部分を持っている。そうしてその未発達の部分が、人間や、
人間社会をしばしば強く動かすのである。これが不幸の原囚である。人間は、自分では気、がつかな
くても、自分のからだや心の奥底に、自分の知らない非常に遠い過去からのものをそのまま受けつ
いで残している。人間に進化するまでの過程において必要であった人問以前の非人間的なものを、




                                                                   --’-‐-j
そのまま心の奥ふかく秘めている。人間にまで進化した現在ではもはや不要であったり、あるいは
かえって有害となるものを残している。人間の愚かな行動はそれに起因しているのである。求聞持
法はそれをとり除いて、人間を賢くさせる方法を持つ。
 教育や、また、「教え」を主にした一般の宗教では、人問の奥ふかくにひそむこの暗黒部分をと
りのぞくことが出来ない。なぜならば、モの暗黒部分は究極のところで「教え」を拒否してしまう
からである。必要なのは、「教え」ではなく「方法」である。求聞持法はその「方法」を持つ。い
や、その「方法~が求聞持法なのだ。わたくしは、この法を、一部のエリートたち(あるいはエリー
トを志す人たち)だけでなく、人類全体に適用したいのだ。人類の知能はそれにより間違いなくレベ
ルアペフするだろう。
 ところで、人間の知能について考えるとき、老人の知能低下の問題をそのままにしておくわけに
はいかない。
 専門家の調査によると、現在、全国に完全恍惚の老人か、およそ三十数万人いるという。いわゆ
る「見当識」を失って、記憶のほとんどを忘失してしまった気の毒なひとたちである。しかし、気
の毒なのは本人たちだけではない。その家族たちも同様に気の毒である。中には、人間関係を荒廃
させ、あるいは経済的に破綻しようとしている悲惨な家庭、かいくつもある。仔細に見てゆくとき、
これはもうひとつの社会問題であると思わざるを得ない。高齢化社会がすすみっつある現在、これ
は今後よりいっそう深刻化してゆくであろう。これはひとごとではない。おたがい切実な問題であ
る。生ざているかぎり、だれでも老人になるのだ。そうして多少の個人差はあっても、老人になっ
たらだわでも知伯の低ドは防げない。      
 では、人間の知能を飛躍的にアベフさせる求聞持法はどうなのか。
 すぐれた効果をあげることができるのである。かなりの高年者でも、この法によって訓練するこ
とにより、確実に脳の老化を防ぐことが出来る。もちろん、若ものたちのようなわけにはいかない
けれども、うまくゆくと、その老人の過去のどの時代よりも若々しく冴えた頭のはたらきを見せる
という皮肉な現象も起こり得るのだ。
 老人は長い社会生活による豊富な経験と知識を持つ。ながい間の経験による知恵も持っている。
この経験と知識と知恵を、恍惚のかなたに消滅させてしまうことは、本人はもとより、社会にとっ
ても損失である。
 求聞持法の訓練により、老人は、脳の活力と柔軟性をとりもどす。それは老人の経済的自立礼意
味するだろう。

 以上の一石のことは可能なのである。
 もちろん、この二つを完全に果たすためには、今までとちがったあたらしい求聞特法が必要であ
る。なぜならば、古来の求間持法は、エリート集団の特殊訓練法であった。エリート中のエリート
をえりすぐって修行させることにより、はじめてその効果をあげることができるものであった。そ
れをそのままこれらのひとたちに適用することは出来ない。ではどうしたらよいのか? そのこと
についてはまたあとで述べよう。




 一1求聞持聡明法の秘密を解く鍵

 前章に述べたのが求聞持聡明法の行じかた次第である。流派により、また阿開梨により多少の相
違はあるが、いずれにしてもたいした違いはない。
 ところでI、この行法次第を見て、あなたはどう思われるだろうか? おそらく、再三読みか
えしたあげく、こんなことで頭脳が飛躍的に向上して、超人的天才になるなどとはぜったいに信じ
られないという結論に達するのではなかろうか?
 いったい、この修行法のどこに、人間の頭脳を飛躍させる要素かおるのか? だれだって疑問に
思うだろう。わたくしもそうであった。なんべん読みかえしてみても、とうてい「おまじない」の
域を脱しないようなこの修行法の、いったいなにが人間の脳を改造するというのか、ついには馬鹿
らしい思いさえしてきたのであった。
 しかし、わたくしはこの法を信ずることにした。空海がひとえに「大聖の誠言を信じ」だように、
わたくしは空海の「誠言を信じ」だ。行法次第の命ずるままに、わたくしは実修に入った。真剣に
行法に打ちこんだ。失敗であった。なんの得るところもなかった。わたくしはこの行法を二回くり
かえした。二回とも同様の結果であった。三回目には、手を尽くして、「口伝」、「秘伝」として秘
ル以れいるものを川火心るかyり入し、これをとり入れた。結果は同じことであった。しかし
にわたくし口川しなかりた。もともと、行法次第とはそういうものである。それは「法」そのもので
はないのである。「法」の手引き書、案内書に過ぎない。そこには「法」のヒントが記されている
だけなのだ。ひとはしばしば、行法次第(とその解説)をさずけられたことを以て、「法」そのもの
をさずけられたことのように錯覚している。そうして「法の伝授を受けた」と称してありがたがっ
でいる。そうではないのだ。それは修行の手引き、法のヒントをさずけられたのに過ぎない。その
ヒットを于かかりに、修行者は血の出るような修行をして、ほんとぅの法を発見するのである。わ
たくしはそれまでの修行でそのことを知っていた。行法次第に記されていることを以て法そのもの
と思い、それをそのま竃、ハカみたいにくりかえして、それで法が体得されるなどとは思っていなか
うた。だから、一応は行法次第の通りに実修してはみたが、それが効をあらわさなかったからとい
うて落胆したり、法をうたがってみるなどということはなかった。
 それと、わたくしは、ぜったいに密教というものを信ずることにしていた。小ざかしい理くつを
ならべて、「そんなことはあり得ない」となんでも否定してしまうことはだれだって出来る。しか
しそこからはなにも生まれはしない。信ずるところからすべては生まれるのである。わたくしはあ
らためて求聞持法の検討をはしめた。過去三回の一心不乱な実修で感じたものをもとに、この法を
再検討した。さきに、わたくしは、二回の実修でなんら得るところ、がなかったと書いた、か、三回目
の修行で、わたくしはこの法のヒントをつかみかけていたのである。
 そのヒットをもとに、わたくしは、不眠不休の実験に入った。そうしてついにわたくしはこの法
のナゾを解いたのである。それは「音響」の秘密であった。

 この法を成立させるいくつかの要素かおる。その最大の要素が「音響」であった。それをわたく
しはついに解いたのである。
 1真言読誦

 求聞持聡明法の行法次第を仔細に検討してみると、それは三つの要素から成り立っていることが
わかる。
 田 衣・食・住という環境を規制することにょり、修行者の身心を規制し、
 ② かぎられた日数内に百万べんの真言ダラニをとなえさせる。
 明星を拝する。
 この三つである。この三つのものは、いったいどんな意味を持っているのであろうか?
 田の、衣・食・住の規制はわかる。
の、真言読誦は、心の散乱を防いで、精神統一の役目をはたすのであろう。
の、明星礼拝は、本尊の虚空蔵菩薩、か明星の化身であるというところから、これを礼拝するの
であるが、これは修行者の心に神秘感をよび起こして修行の効果をたかめるのであろう。
 大体、以上のように推測される。
 が、この三つのもののどこに、頭脳を明敏ならしめ、記憶を増強するという効果が秘められてい
るのか? 世には相乗効果という言葉かおるが、この三つをどう組み合わせてみたところで、大脳

に刈していかなる相乗作川も生ずるもののように思われない。いったいこれはどういうことか?
日夜、定に入ってわたくしはひたすら思いをこらした。あるとき、ふっとひらめくものがあった。
 それは㈲の百万べんの真言読誦であった。これだ! ここに秘密を解くカギかおる!・ そう心に
ひらめいた○だった。

       それは、若いころからのヨーガの習練のおかげであったといえよう。二十歳代のはじめから、わ
    。 たくしはヨーガに興味を持ち、ハターヨーガの実修をしていた。それが、求聞特法実修の数年前か
      ら、クッダリニー・ヨーガの修行に入っていた。指導してくれる師は日本にいなかったが、いくつ
      かの研究書や秘伝書を手に入れ、独自の研究のもとに修行をすすめていた。
       クッダリニー・ヨーガでは、人体の七か所に、超人的能力を発生させる特殊な部位(チャクラと
      呼ぶ)のあることを発見し、その部位を、それぞれ、ムラダ上フ、マニピュー、スヴズソスターナ、アナハタ、ヴィシュダー、アジナー、サハスララ、とよぶ。(拙著『密教・超能力の秘密』参照)
       この、チャクラとよぶ人間のからだの秘密にわたくしが気づいた最初は、滝行の修行にうちこん
      でいる時であった。
       三十代のはじめ、わたくしはひたすら苦行にかりたてられていた。
八  七年問の滝行の誓願を立て、毎冬、十月から四月まで、京都伏見の五社の滝にかよった。京都のi
          --   -     ----  --- -・-   --
真冬はきびしい。毎朝、霜ばしらを踏みしだき、ときには真向から降りしきる雪を浴びてあえぎな
がら暁闇の山道をたどった。滝つぼに張りつめた氷に足をすべらせて、腰を打ったこともあった。
べつに、それで神通力を得ようとか、さとりを得ようなどと考えたわけではない。そこに何かがあ
るだろうと思ったからであった。いや、何もなくてもよい、ただひたむきに苫行にかりたてるなに
かがあったのだ。
 零下何度という厳寒に滝にはいるときには、前夜から、その意志を、からだのすみずみにまでつ
たえておかねばならなかった。ねむるときから表情のかわっているのが自分でもわかった。体つき
さえも、がちかってくる。暗いうちに目をさまし、洗顔をすませると、ただちに仮宿さきの寺内を出
る。約ニキロの山道を、一歩、一歩、大股にあがってゆく。これから受ける冷水の洗礼にそなえて、
一歩ごとに、全身の細胞、が緊張の度をくわえてゆくのがよくわかる。
 五社の沌に着いて社務所で行衣と着がえる。モのときである。自分の体臭が異常につよく高まっ
ているのを感じたのだ。その体臭に遠い記憶とほのかな郷愁があった。それはまぎれもなくわたく
しの十七、八歳のころの体臭にも、かいなかった。三十歳代に入った男の体臭ではなく、少年から青
年にうつり変わるころの特徴のある体臭であった。三十を越えたわたくしが、少年の日の体臭をは
なつ……。
  「なぜだろうか?」
 最初のうちは、ふっと興味をそそられた程度のものだったが、しだいに注意を向げるようになっ
た。
 そのうち、その体臭に微妙な変化のあることに気がついた。気温がことに低くなって寒気がきび
しさを増したり、こころの緊張が高まっているときほど、体臭は濃く、つよかった。春さき、ある
いは夏の水俗のときには体臭に異常がなかった。
  「おもしろい現象だな」
 そのころ、苦行によって五官の感覚がとぎすまされ、異常に鋭敏になっていたのであろう。そう
いう微妙な変化が実によくわかった。
  「どういうわけだろうか?」
 その年の冬、ことに寒さがきびしく、毎日、わたくしはその現象に考えを集中していた。
 あるとき、とつぜんわかった。
 厳寒に氷を割って流に飛びこむという、肉体にとって最大の危機にそなえ、全身の細胞が全予不
ルギーを燃やしてたたかっているのだとわかった。凍りつくような寒気の中で飛び散る水しぶきを
目にしか、がら行衣と着がえるとき、わたくしの全細胞は奮い立ち、その結果、十数年、若返ってい
たのである。
 それは、七日間の断食と一日四回の滝行を兼ねた吹雪の中の荒行にはいっていたときであった。
わたくしはそのとき苦行の頂点に立っていた。全身にふりかかる雪まじりの滝水の中に立って、行
の頂点に立っていた。そのときわたくしは一種の異常感覚の境にはいっていた。わたくしのからだ
の奥ふかくでひとつの機能が死にものぐるいでたたかっているのが感じられた。それがどのように
してたたかっているのか、そのときのわたくしの目ははっきりととらえていた。そのとき、肉体の


目は全く消失し、べつな目が肉体の外にあってわたくしを見つめていた。その目はわたくしの内臓
のすみずみまで見透していた。
 行が終わると、わたくしは、例になっている社務所の奥さまの出してくださる熱いお茶もいただ
かず、いっさんに山をくだった。
  「いま見たあれは何なのか?」
 それだけが念頭にあった。
 それからというもの、わたくしは、ヨーガの奥儀書や東西の秘密教典はもちろん、生化学書、医
学書、大脳生理学の専門書までひもといて、それを追求した。
 その結果、あのとき、わたくしに啓示をあたえた体臭の異常、また、わたくしの生体をささえる
ため必死にたたかっていたのが、副腎とよぶ機能の高まりであったこと、そうしてそれは、クッダ
リニー・ヨーガで、ムラダーラ、およびマニピューラとよばれるチャクラの部位であることがわか
ったのである。
 以来、わたくしは、クソダリニー・ヨーガの体得にふかく没頭していったのである。

声、が脳に及ぼす振動効果
七つのチャクラと、人体の機能の関係をあげてみると、 
ムーノダー・・ソ・斤いク’ソー性腺・行臓
 ② スヅアジスターナーチャクラー副腎・屏臓
  マニピューフーチャクラー太陽神経叢・副腎・膠臓・牌臓・胃・肝臓
  アナハターチ十クラー・胸腺・心臓・肺臓
  ヴィシュダー・チャクラー甲状腺・上皮小体・唾液腺
  アジナー・チャクラーー脳下垂体
 ⑦ サハスララーチャクラー松果腺・松果体・視床下部
 以上であるが、このうち、6のアジナー・チャクラと、7のサハスララーチャクラが、頭脳のチ
十クラである。わたくしは、この二つのチャクラが求聞持法に関係があるのであろうと思った。そ
のころ、わたくしはムラダ上フとマニピューフの二つのチャクラを目ざめさせかけていた。チャク
ラというのは、だれでも持っているのだが、自然のまま放置していたのでは、いつまでたっても力
は発生しない、チャクラを日ざめさせ、超人的な能力を発生させるための特殊な技術かおり、その
技術で訓練しなければだめである。いま述べたように、わたくしはそのころムラダーフとマニピュ
上フの一石のチャクラを目ざめさせかけていた。その技法は、ひと口でいうなら、特殊な呼吸法と、
それを可能にする特殊な体技(体の訓練)および十数種の聖語の読誦によって、チャクラに特殊な
つよい振 動をあたえるのである。
 わたくしは、求聞持法を検討する実習にはいってからも、このチャクラ開発の訓練をつづけてい
たのだが、この訓練の最中に、はっと気がついたのである。(ニー㈲0)百万べんの真言読誦という
のは、このチャクラ開発とおなじ効果をねらっているのではなかろうか、と。

 それしかないのである。どう考えても、それ以外、百万べんの真言読誦の意義はない。クソダリ
ニー・ヨーガと同様、求間持法は、真言読誦という「声の振 動」を脳(のチャクーフ)につたえて、
その部分に変化を起こさせるのにちがいないのだ。そう気がついた瞬問、わたくしは狂喜した。古
来、密教の阿開梨の中で、だれがここに気がついたろう! もしもわたくしのこの考えが正しくて、
わたくしがその技法を把握し、それを完成したとしたら、わたくしは密教最大の秘密を解いた指導
者ということになる! わたくしは夢中になった。それからわたくしの「音響学」「喉頭学」「発
声学」の研究と実験がはじまったのである。なぜなら、もしもわたくしの考えが正しいとしたら、
今までの密教徒がやっていたような、ただ単にロの先きで真言をとなえるというような「語(口)
密」のやりかたは全く間違いであり、無意味なものということになるからである。真言読誦の真の
効果を上げるための、なにか特殊な方法がなければならない。それは、これらの科学の中にあるは
ずだ、そう思ったのである。寝食を忘れてわたくしはそれに没頭した。もし、その頃、わたくしの
秘密の修行場に近づくひとがあったら、そこには、オペラの歌手を気どる中年の精神病者が龍って
いるのだと信じて、さぞおどろいたことであったろう。なぜなら、わた’くしは、往年の大歌手、シ
ャリアピンの有名な逸話を念頭に声を張り上げていたからである。
 シャリアピンの逸話というのは、昭和のはじめに来日して、帝劇で歌ったシャリアピンが、ひと
きわ声を張り上げると、一番うしろの廊下のガラス窓が、ビリビリと音を立てて割れんばかりに振
動したというのである。いや、おどろいてはいけない、実際に声でガラスを割ってみせたという歌
もいる。エンリコーカルーソーがそれである。わたくしはこの二人の大歌手の伝説と逸話を念頭
に、あまり外に声、が洩れぬよう気をくばりつつ、声を張り上げていたのである。-実際、わたく
しは、いまでも、ルーカント唱法についてはかけ出しの歌手よりもくわしいつもりでいるのであ
る。(!)
五上言葉の力
 わたくしの苦心は、カルーソーやシャリアピンのような強烈な声の振動を、ガラス窓に対してで
はなく、内なる脳のある部分に送りこもうというところにあった。
 その原理というのはこうである。
 古代ヨーガでは、すべての形態はその形態固有の特質を持ち、それは環境の振動数の祖み合わせ
の結果であると考える。つまり、振動数が、ものの形態をつくり上げ、そのものの性質を決定する
というのである。これは決して無稽なものではない。いや、それどころか、それが正しいと思わざ
るを得ないよく知られた実験がある。
 十八世紀に、ドイツの物理学者、エルソストークラードニは、振動のパターンが目に見えるよう
にする方法を発見した。かれは、バイオリンの上に薄い金属板をはりつけ、その上に砂をばらまい
たのである。そして、弓で弦をこすると、砂がいろいろなパターンに配列することを見つけた。つ
まり、音響が、いろいろな図形となってあらわれるのである。現在、クラードエの図形として知ら
れているこの配列は、金属板の振勤しない部分だけに砂、か集まるために生じるのである。それらは、
 サイマテ″ツクスの基本原理は、
 「環境の圧力は波動のパターンをになわせられており、物質は波動の振動数に依存する形態をと
って、これらの圧力に反応する」
というのである。
 スイスで、過去十年間、ハソ7 Iジェニーは、クラードニの図形をさらに改苦し、「形態は獣能
の関数である」というエレガントな証明をしようとしてきた。そのために、かれは、音を、不活性
物質中の目に見える三次元のパターンに変える「トノスコープ」という機械を発明した。これは、
人間の声をも音源として用いることが出来る。モの結果はかず多くの興味あるデータを生み出した。
「スーパー・ネーチュア」の著者ライアルーワトスソはこういっている。
  「Oという音の振動数によって生ずる形が、まさにわれわれが文字で象形的に表わそうと選んだ
形そのものであることは、驚くべきことであるというべきではないか」
 たしかにその通りである。
 トノスコープのマイクにむかって、oという言葉を口にすると、その装置は完全な球形のパタ
ーンを生じるという。つまり、クラードユの図形でいうと、砂がみごとな円形をえがくということ
だ。ところで、円は、ふつう、円満・調和・完全・完成などを意味する。そうして、つねに調和と
完全を説く古代ヨーガが、o目という語を「聖話」として用い、その系統をひく真言密教の真言
のほとんどが、「瞳」という語ではじまっているのは、それ以上におどろくべきことであるという
べきではないか。
 たしかに、言葉は、それ自身が持つ特有の振動数によってその言葉特有の力をあらわすことにま
ちがいはないようである。
  「形態は機能の関数である」とハソスージェニーはいったが、その形態を決定するのは振動数に
ほかならず、わたくしは、「振動は形態と機能の関数である」といいたい。
 そこで考えられることは、もしも人間、かおる作用をする振動数(の音)を、絶えず自分のからだ
の内部に送りつづけていたとしたら、それがどういう効果をあらわすであろうかということである。
 クラードユの図形、トノスコープの装置は、これにたいする答を出しているように思われる。

 、ハイオリソの上の砂が、ある音にょってさまざまなパターンの配列をえがくとすると、ある音を
つねに脳に送りこむことにより、ジェリーよりもやわらかく、かつデリヶIトで敏感な脱細記がヽ
あるパターンの配列をえがくようになるということは考えられないか? 脳生理学者はI笑にふす
るかも知れない。脳細胞はトノスコープではない、と。しかし、ある音を、つねに、脳細胞が影響
を受けるような方法で脳に送りこみつづけたら、脳細胞は影響を受けないはずはない。問題はその
方法だとわたくしは考えたのである。
 ある生理学者は、「非常につよく緊張した筋肉は、たしかに聞きとれる音をつくり出す」という。
 それでは、非常につよく緊張した脳はどうであろうか? 音とは、波動がわれわれの聴覚器官に
聞きとれるような振動を発したということである。緊張した脳は、緊張した筋肉のように聞きとれ
るような音は出さないであろう、か、緊張すれば、緊張した振動を発するはずである。とすると、逆
に、モの振動数を脳に送りこむことにょって、(あるいはその振動数をなんらかの方法で外部から脳に発
生させることにより)脳を緊張状態に誘導することも可能ではないかと考えたのである。また、そう
いう方法で脳にある種の変化をあたえることも出来るはずだと考えた。問題はその方法である。モ
の方法で百万べんの真言を脳の中に送りこむことを考え、わたくしは、日夜、「音響学」「喉頭学」
 「発声学」の諸書に目をさらし、カルーソーやシャリア。ヒソのようにガラスを割る声の振動を、脳
の原部に叩きこむエ夫に熱中したのである。
 真言密教において真言の読誦が最も大切なものであることは、いまさらことあたらしくいう必要
はないであろう。「密教」の上に、「真言」という言葉を冠しているのを見ただけでそれはわかる。
 にもかかわらず、いままでその真言の読誦の方法について、工夫らしい工夫、研究らしい研究が
なされていないのはいったいどうしたことであろうか。わずかに、「念珠をつまぐりながら、わ、か
耳にかすかに聞こゆる程度の微声で」という程度のことである。これはまことにおどろくべきこと
といわねばならない。それとも怠慢というべきか。
 ただし、密教に「声明」という独特のものがある。
 密教辞典によれば、
  『声明―梵唄声曲をいう。すなわち微妙の清音拗直除切音韻屈曲長短高下して三宝を訊詠歌頌す
る声曲なり。元来は印度五明の一にして言語文字文典等を論究する学問なり。ぷ目龍軌”に。まさ
に清雅の音を以て歌詠して讃す”といい、。摂大軌”に遥心地を求めんが為に清音を発して牝獄に
唄唱す”と説けるものこれなり」
とある。
 おたくしが前の節において考え求めたところのものとは全く異る。要するに、仏をほめたたえる
歌詠である。

 尤も、密教辞典は前の文章につづいて、
  「密教は特に此の声曲歌詠を尊崇し、。時軌処”には。是の秘密喩伽は歌詠讃を陳べて如来を歎
揚するが故に成仏も難からず、況んや請願を求めて成就す”と説きて歌詠歎揚をただちに成仏の縁
となす」
とあり、これは、わたくしが思案したこととおなじところのものに思いあたっているかのごとくに
思われるが、のちにわたくしが体得した技法とはまったく異る。どこまでもこれは歌詠である。外
に向って声を発して歌うのである。わたくしの真言読誦はちがう。口腔に発した真言の振動を共鳴
させながら、からだの内部、すなわち心と脳の深部に響かせてゆくのである。
 さきの章にあげた[正念誦](五四頁)のところを見ていただきたい。「次第念珠」の観想にこう
ある。
 「わが誦するところの真言の字は本尊の臍輪(おへその穴)より入りて、本尊の心月輪に至り、右
にめぐりてっらなり住し、本尊の誦する真言の字はわが頂より入りて心月輪に至り、右にめぐりて
つらなり住す」
 むしろ、この観想のほうが、わたくしのねらったものに近いといえるかも知れない。
 ただし、わたくしの場合は、たんなる真言の字ではなく、その振動である。ホトケのとなえる真
言の振動が、ホトケのヘモからわ、かへそに入って咽喉にいたり、大振動を発して大脳の深部にいた
り、大脳の部位を動かす。わが大脳のチャクラを動かした振動はしだいにホトケの大脳にいたり、
ホトヶの大脳とわが大脳と共鳴する、というように観想しつつ、実際に振動を発生させるのである。
わたくしは、昼夜の別なくトレーニングを進めているうち、しだいに、自分が、真言密教の真髄
に近づきつつあることを感じた。いまだかつて密教の指導者のだれもが気づかなかった秘密の技術
に迫りつつあることを知った。

火の呼吸とチャクラの伝達系
 わたくしはそれを完成することができた。
 それにはいくつかの僥倖があった。
 先ず第一に、ヨーガを身につけていたことであった。
 ハタ・ヨーガの倒立(頭による逆立ち)が、先ずわたくしの首を強健きわまるものにしていた。わ
たくしは二十数年問毎朝三〇分の倒立をしてきた。これは倒立の限界である。倒立したまま、しば
しばわたくしは眠ったほどこの技に熟達している。結核体質で幼少から首が細かったわたくしは、
倒立で、三十歳代に首の周囲がI・五インチも拡大した。これがどれほどわたくしの発声器官を強
大にしたことか。
 また、十数年にわたる寒中の滝行も、わたくしの腹筋と発声器官を強くしていた。はじめて滝に
入ったとき、二日目に声をつぶした。滝に打たれながら、全身の力で読経し、真言を誦する。一か
月間、まったく声が出なかった。こういう経験を十数回くりかえした。いまでは、どんな大きな滝
でも、わたくしの声を消すことはできない。何百メートル先きまでも、滝の音を圧して、わたくし
の声は透る。
 しかし、クソダリニー・ヨーガの修行をしていなかったら、おそらく、それ以上のこころみは全
くメドが立だなかったろう。クンダリュー・ヨーガのチャクラ開発は、特殊な呼吸法に秘訣かおる。
それと、チャクラ周辺の筋肉9ハイブレーショソだがI。先ずその呼吸法が役に立った。
 ざっと説明してみょう。
 音声というものは、呼吸と発声と共鳴の三つから成り立つ。そのいずれも同じ程度に重要である。
 発声は振 動そのものであり、共鳴はその振動を倍加させ、振動の力を増強するものであり、呼
吸はその両者の原動力である。
 ところで、クソダリュー・ヨーガの呼吸法は、「大の呼吸」とよばれるように、フイゴの如く強
く激しい。これ、か、発声と共鳴の原動力として、どれだけ強力に作用するか、想像以上のものであ
る。
 大の呼吸、発声、共鳴の三つの要素を完全にはたらかせるためには、からだ全体を強化しなけれ
ばならないが、とりわけ、強い肋間筋と腹筋、それに頑丈な横隔膜が必要である。
 わたくしは、さきに、ムラダーラと、マニピュ士フの二つのチャクラを完成しかけていたと述べ
たが、肋間筋、腹筋、横隔膜は、実に、ムラダーラとマニピューラの両チャクラが支配しているの
である。この二つのチヤクラを目ざめさせたら、この三つの器官はどのようにでもはたらかせるこ
とができるのである。それまでにこの二つのチャクラを完成しかけていたことは、まことに僥倖と
いうべきだった。
                                            %  -♂-
 呼吸法と発声が完成したら、つぎに独自の共鳴腔をつくりあげなければならない。
 音声の共鳴は、喉腔をとりまく骨組みの付加運動のはたらきによる。つまり、頭部の中の、腔と
骨の振動によって共鳴をつくりあげるわけである。それは、練習によってだれにでもできるように
なる。上手下手の別はもちろんあるがI。だが、わたくしの場合はさらに特殊な工大か必要であ
った。というのは、その共鳴を、自然の法則に反して内部にとり入れなければならなかったからで
ある。

 生物の発声器官は、すべて、外部に向って音声を発するように出来ている。わたくしはそれを内
部に向ってしようというのである。田心いもよらぬことであるが、ついにわたくしはそれをなし得る
ようになった。それを可能にしたのは、やはりチャクラの力であった。
 のどで発声させ、喉腔内で共鳴させた真言の振動を、脳の深部に送りこむ作業は、マニピューラ、
スヴァジスターナ、アナハタ、の各チャクラの力を借りなければぜったいに出来ないのである。思
いきって、わたくしの完成したこの秘密技術の一部を洩らすことにしよう。喉腔内でっくりあげた
共鳴の振動を、そのまま脳の深部に送りこむことはできないのである。それはぜったいに出来ない。
わたくしは、何百回、何千回とくりかえしたあげく、ついに不可能とさとった。それは生体の法則
であるのだろう。ではどうすればよいのか?
 最後にやってみたわたくしのこころみ、が成功した。その振動を、いったん下部のマニピューラ・
チャクラに伝えこれと共鳴させるのである。そうして、チャクラのバイブレーショソとしてスヴァ
ジスターナ、アナハタとつづくチャクラの伝達系を通じて脳のチャクラに送りこむのである。とい わたくしのねらいは間違っていなかったのである。この特殊な真言萌誦の技術は、求聞持法成就
にかくじつにつながるものだったのである。やがてわたくしはこの法を成就するのだが、成就した
瞬間にどういう現象が起きるか、それについては、さきに、『密教・超能力の秘密』に書いたので、
ここには述べない。興味あるかたはそれを読んでいただきたい。ともあれ、わたくしは求間特法成
就の道を歩みつつあった。それはひとつの異常な感覚が目ざめつつあることでわかった。
 どんな感覚か?
 環境に異常に敏感になってきたのである。
 わたくしが、求間特法を修して、自分か狂気したのではないかと疑ったのは、この時が最初であ
った。                                    
 とく落ちいいていられなくなったのである。というのは、いろいろなざわめきがからだじゅうに
火き刺さってくる心じである。ことに脳になにかが浸透してくる感じであった。安眠できなくなっ
た。求聞特法成就の過程に、実に異様な夢を見る一時期があるが、これはそれともち、かう。潮騒い
のような、あるいは松簸のようなざわめきが、じんじんと波を打っておしよせてくるのである。そ
れにつれて一種のつよい「胸さわぎ」のような感じに襲われるのである。はなはだしいときには目
まいさえしてくるのであった。
 目まいといえば、いちばん最初、聴覚と同時に目に異常がきた。すべてのものが異様に揺れ動い
ているのである。なにかで見た風景であった。すぐにわかった。ゴッホの絵である。あなたもあの
ゴッホ特有の嬬動しているような線の流れを御存知であろう。あのようにすべてのものがたえまな
くブルブルと小きざみに震動しているのである。空気までがいっしょに振動しているようであった。
それにつれて光賜が震えていた。そのためか、ものの明暗が異常にきわ立って目にとびこんでくる
のであった。しかし、これはまもなくおさまった。体調が非常によいとき、悪いときに、これはい
までもときどき起きる。よいときとわるいときで、ちがいかおるのはもちろんである。自分で体調
のわるいことに気づかないでいるとき、それでわかること、かおる。わたくしは、死が近づいたとき
にはまた特殊な振動を感ずるのだろうと思っている。これはおさまったが、音のないざわめきは消
えなかった。
 場所によって強弱、かあった。そういうことから全く解放される時間と場所に行き会うことがあっ
た。そこで転々と居場所を変えることになる。立ったり、座ったり、そのへんをとめどなく歩きま
わる。気が狂ったのかと思った。あるいは、なにか物の怪か、亡霊のたたりにでもふれたのかと疑つたりした。
 やがてその理由がわかった。
 要するに、環境の振動に敏感になったのである。脳の神経、か異常に目ざめ、環境の振動を鋭く感
じとってしまうのである。
 これが長くっづいたら、じっさいにわたくしは発狂してしまったであろう。間もなくわたくしは
これを制御する方法をおぼえた。平常はこの感受力を微少なものにしておき、必要に際して拡大す
るのである。y」のチャクラの目ざめにょって、わたくしは、すべてのものがいろいろな振動をはな
っていることを、実際に身を以て体験したのである。存在とはまさしく振動そのものにほかならぬ
のであった。
 ところで、この異常な感受力を利用すれば、突発的な不幸や災難、事故などすべて、周囲の振動
の変化で予知できるであろう。それは人間にたいしても同様で、非常な悪意、たとえば殺意などを
いだいてこちらに近づいてくる人間など、容易に察知できるのである。が、そんなことは枝葉のこ
とであった。そんなことよりも、わたくしは、この経験にょり最大の収穫を得たのであった。それ
はなにかというと、脳にょい影響をあたえる振動(数)と、わるい影響をあたえる振動(数)がは
っきりわかってきたことである。よい影響をあたえるとは、脳に活力をあたえ、脳を生き生きとさ
せ、脳のはたらきを増強拡大する振動であり、わるい影響とはその正反対のはたらきをする振動で
ある。これは、求聞特法修行上の画期的な発見であった。        ・
 このことについて、つぎにわかりやすく説明してみょう。

驚異的な超低音の力
  最近、大都市において次第に問題化しつつある「低周波公害」について御存知であろうか?・
  東京では、主として環状七号線の道路ぞいに頻発して問題になっている。眼にも見えず、耳にも
 聞こえないある種の波動―‐II新聞の記事によると二〇ヘルツ前後というIしが、人びとに一種のス
 ドレス症状をひき起こし、ひどい時には目まいや頭痛まで起こさせるのである。その原因は、各種
 の機械の作動によって発生する振動によるものである。
  有名なガブロウ教授の実験かおる。
  ガブロウ教授は技術者であったが、最近、仕事中にいつも気分が悪くなるので、マルセイユにあ
る研究所の気に入った地位をほとんどあきらめかけていた。
  しかし頻発する吐き気に悩まされるのは、ビルのてっぺんにある事務室にいるときだけなのに気
 がついて、職をやめるのを延期し、その原因をくわしく調べてみることにした。先ず、彼の脳をか
 きみだす何かが部屋の中にあるのにち、がいないと考えて、さまざまな化学物質を敏感に検知する装
 置や、ガイガー・ガウン夕Iまでも持ち出して、それをつきとめようとした。しかし、どんなにし
 ても何も見つけることができないので、ある目、途方にくれて部屋の壁に背中をもたせかけ、腕を
 組んで考えこんだ。すると、部屋全体が、非常に低い振動数で揺れているのを感じたのである。


れの事務室は、それと共鳴して共振を起こすのにおあつらえ向きの形であり、ちょうどよい距離で
あったのだ。かれを病気にさせていたのは、毎秒七ヘルツの振動数を待ったこのリズムだったので
ある。
 この現象に興味を感じたガブロウ教授は、ひとつこれととり組んで研究をしてみようと考え、
振 動を発生する機械をつくる決心をした。適当なデザインをさがしまわっているうち、フラン
スの憲丘ハが使っているエンドウ豆入りの笛が、すべての範囲の低振動数の音を生じることを発見し
た。そこで、かれはこれを拡大して、長さ六フィートの憲兵笛をつくり、圧さく空気でこれを吹き
鳴らす装置をとりつけた。
 この巨大な笛をはじめて試し吹きした技術者は、その瞬間、その場にぶっ倒れた。ほとんど即死
だった。検死解剖の結果、かれの内臓器官はすべて振動にょってつぶれ、めちゃめちゃのジェリー
になってしまっていた。
 ガブロウ教授はこれにこりて、もっと慎重にその研究をすすめることにし、つぎの実験は戸外で、
その機械をコソクリートの壕に入れ、実験者から遠く隔離しておこなった。そうして、空気をゆっ
くりと吹きこんだ。が、実験場から半マイル以内にあるあらゆる建物の窓が全部こわれてしまった。
 その後、かれは、イソフラサウソド発生装置の大きさをもっと効果的に調整することを学び、実
験研究のため、一連のもっと小型の機械をつくること狐成功した。今日までの最も興味ぶかい発見
の一つは、低振動数の波はねらいをつけることができるということである。二つの発生装置を使っ
ミ五マイル離れた特定の目標に焦点を合わせると、共鳴を起こし、まるで大地震のような驚異的
な力で大きな建物を崩壊させることができるということである。これらの、振動数七の機械は非常
に安価につくられる。その設計図は、いま、パリの特許局で三フランでだれでも買うことができる
のである。
 このエピソードで知れるように、聞きとれないほど低い周波数の振動は、ある特定の場所-―た
とえば幽霊屋敷とか、たたりのある呪われた場所とかIにつきまとう抑圧や恐怖の感情を説明で
きるのではなかろうか? もしもガブロウ教授が科学者でなかったら、マルセイユのビルのてっぺ
んにあるかれのオフィスは、なにかに呪われているか、たたられているのではないかと考えて、逃
げ出していたかも知れない。
十-存在とは振動である
 音についてさらにもう少し述べる必要、かおる。
 われわれをとりかこんでいる世界は音に満ちている。われわれは音の中心に住んでいるといって
もよい。しかし、音は必ずしも聞こえるものばかりではなく、人間の耳に感じない音もたくさんあ
るのである。
 われわれがふつう音という場合、それは耳に聞こえることを前提としていっており、聞こえない
音などというものは概念上あり得ないのであるが、物理的には聞こえない音のほうがむしろ多いのである。
 人間の耳が感じることのできる音は、ある一定の音域のものにかぎられており、それ以上低くて
も高くても聞くことができない。
 では、その、高い、低いという性質はどこできめられるかというと、それは振動数にょって決定
される。
 音とは、御承知の通り、振動である。げんみつにいうならば、空気の粒子の振動であり、それが
耳に達したとき鼓膜の振動をよび起こし、われわれはそれを音として聞くわけである。しかし、あ
まりに高い振動と低い振動には、鼓膜は作用しないのである。
 ところで、どんな振動でも、それの基本的な特徴となっているのが、振動の周期と振幅である。
音の場合、振幅は音の強さに関係、かおり、周期は音の高さに関係、かおる。そこで、振動周期という
のは一振動をおこなうに要する時間のことであるが、一秒間の振動数を「振動の周波数」とよぶ。
                                          う
周波数(または振動数)の単位には、一秒間に一回の振動をとり、この単位を「ヘルッ」mと名づ
                                          ぐ
けるのである。この周波数はわれわれが音を区別する特徴としているものの一つで、周波数が大き
ければ大きいほど、われわれは高い音を耳にする。すなわち、音はより高い調子を持つわけである。
 人間の耳が聞きとる音の範囲は、およそ一六?二万ヘルツとされている。それ以上、それ以下o
振動数は聞きとることができない。個人差はあるけれども、人間がもっともよく感じるのは、一〇
〇〇ヘルッから三〇〇〇ヘルッまでの周波数の音である。前の節で述べた低周波というのは「超低
音」のことで、これは、約ヱハヘルッ以下○までの周波数のことである。 ≒s
 そういうと、なあんだ、わずか一六の音域かとごくかんたんに考えてしまうかも知れないが、そ
うではないのである。たいへんな広い範囲を持っているのである。というのは、振動には、一ヘル
ツ、十分のIヘルツ、百分のIヘルツ、千分のIヘルツ、百万分の一ヘルツまであるのである。
 超低音波振動(超低周波空気振動)は、きわめて多様な条件のもとで発生する。建物、樹木、電柱、
鉄製トラスなどに風が吹きつけた場合とか、人や動物が動いたり、扉が叩いたり閉ったりした場合
とか、そういうときに発生するとされているのだが、わたくしはそれだけではなく、ものが存在す
るとき、それはもうすでに超低音(振動)を発しているのだと考えるのである。そういう意味で、
わたくしは、さきに、存在とは振動だといったのだが、たしかに、ものは、存在するだけで超低音
を発しているのである。そう、おたくしは確信する。なぜか?
 イギリスの物理学者、J・C.マク誤ウェルコ八三一~一八七九年)は、光が物体にあたると光
はその物体に圧力をおよぼすということを予想したが、ソ連のレーベデフ(一八六六~一九一二年)
は彗星の尾が常に太陽とは逆の方向に流れるということによってこれを証明した。光には重力があ
るわけである。ところで、ごく最近、一九六元年に、アメリカのメリ上フソド大学のJ・ウェし、ハ
ー博士のダル≒フは、「重力波」の存在を確認したと発表した。ウェリハー博士は、「アインシュタ
インの一般相対性理論が予言していた。重力波”の存在の確認をわれわれの手で成しとげることが
できて非常にうれしい」という意味のことを記者会見で語った、か、この発見は、前世紀のおわりの、
ヘルツ(ドイツの物理学者、さきに述べた振動の単位のmはこの学者の名をとったもの)による電磁波の発
見に匹敵する偉大なものであると喧伝された。重力波とは、アインシュタインの一般相対性理論の
方程式から出てくる一種の波動で、かなり昔、一九一六年にすでにアイソシュタイソ自身が予言し、理論計算結果を発表していたものである。その正体は読んで字のごとく、重力が波動の形で空間を
伝播してゆくものと大雑把に考えればよい。そこでわたくしは思うのだが、光が重力を持つという
ことと、重力、が波動の形で空間を伝播してゆくということとは密接な関係かおり、この二つのこと
にょり、存在するものは常にある振動を発しつづけているということが説明されると思うのである。
尤も、これは、数学や科学に全く無知である専門外のわたくしの理論(!)であるから保証のかぎ
りではないのだが、前にも述べたように、求聞持脳を持つと、それが実際に体験されるのである。
あらゆるものの発する音がざわめきとして聞こえてくるのである。その体験により、わたくしはわ
たくしなりにさまざまな思いをめぐらし、いま述べたような理論をもとに一つの理論構成をしたと
いうわけなのだ。
 ところで、いま、わたくしは、求聞持脳を持つと、すべてのものが発している音がざわめきとし
て聞こえるといった。これは要するに、ふつうには聞こえない超低音を聞くということになるわけ
だが、これは、一般の人でも、聞こえないからといって、全く気づかずにいるというわけではない
のである。無数にある超低音をすべての人は感じとっているのである。ただし、それは、耳という
感覚器官にょってではなく、肉体全体によってである。その一つの例を、われわれは前の節で、ガ
ブロウ教授の上に見た。また、環状七号線の道路ぞいの住民たちは、身を以てそれを体験している
わけである。もう一つ二つ、その例を見てみよう。
十一―振動と内臓
 一九七五年のはじめ、東京の映画館で、「大地震」というアメリカ映画が上映された。
 この映画の製作者は、この映画があたえる不安感、恐怖感に、よりいっそうの効果をあげるため、
特別な装置を考えた。フィルムのサウンドートラ″クに不安感と恐怖感をあたえる超低周波振動を
記録しておいて、上映中にそれをスピーカーで観客室に流し、観客室の空気を振動させることにし
たのである。これは予期した通りの効果をあげた。観客は名状しがたい不安感に襲われたのである。
 ただし、だからといって、この映画の製作者、か得意になるわけにはいかなかったのである。
 というのは、この企画はこの映画製作者の独創ではなく、二十年も前に、おなじような試みを実
験した学者がいたのである。
 アメリカの物理学者、乙ハートーウッド(一八六六~一九五五年)は、アメリカのある劇場に、超
低音波振動の発振器を設置して、演劇のはじまるほんの少し前に、人間におよぼす超低音波振動の
影響を研究するためのごく短時間の実験をおこなった。かれが発振器を作動したとたん、なにも知
らない観客たちは、突如、奇妙な不力感に襲われはじめたのである。これからはじまる観劇のたの
しい期待が不意に消え失せ、いい知れない不安感でいっぱいになったかれらは、落ちつきのない目
をたがいに見合わせ、あたりをキョロキョロ見まわしはじめたのである。そして、ある観客たちは、
座席を立って出口のほうへ出てしまった。ウッドがすぐに発振器のスイッチを切ったのは賢明だっ
た。そうでなかったら、劇場は間もなく空っぽになり、ウアドは、マネージャーの苦情をたっぷり
聞かされなければならなかったろう。
 もう一つ、興味ある実例をあげよう。
 南フランスにある海洋科学研究センターの、電気音響学実験室でおこなわれた研究で、学者たち
が、さまざまな周波数と出力での、音波の放射実験をおこなった。超低音波振動発振器の一つを試
験した際、研究者たちは、不意に気分が悪くなったのである。その場にいただれもが、突然、自分
の内臓が振動するのを感じたのだ。腹・心臓・胃・肺が、文字通り振動したのである。隣り合わせ
た各実験室では、人びとが、激しい痛みに、声をあげたり呻いたりした。ただちに発振器がとめら
れたが、さらに数時間たって、すべての者が、くたくたになって床に崩れ折れてしまったという。
この実験室では、出力、かわずかニキロワットという小型のもので、ひとつの建物を破壊する能力を
待った超低音波発振器がつくられている。これはまさに驚異の一言に尽きるが、超低音の破壊力は、
超低音波の周波数が、物件の固有周波数(共振周波数)と一致したときに最も顕著にあらわれるの
である。歩調を合わせて行進していた一個中隊の兵士たちの足もとから橋が崩れ落ちたという、物
理の教科書でょく知られている例もそれである。
 以上、いくつかの例をあげた、か、こういう驚異的な超低音の力について、人類は長い間あまりに
無知のままであった。しかし、都市や家屋、その他の環境構造のいちじるしい変化は、いままでの
ように、超低音に対して無関心でいることを許さなくなるであろう。超低音に対しての無関心、無
川は、そのまま、病気や災巾‥にμ接つながることになる可能性が急派に増大しつつあるからである。
 だが、問題は、超低音の研究には、かなりの困難がともなうことである。それは、以上あげた例
でもおわかりであろう。研究者たちが、しばしば目をまわしたり、不愉快な気分になったり、とき
にはそれ以上の危険な目にあうわけである。超低音の研究は、専門家の問でも、かなり危険なもの
とされている。

十二-重要な修行場の選択
 だが、低い周波の振動が、人間のからだにあたえる影響は、わるいものだけにかぎったものでは
ないのである。
 ガブロウ教授を病気にさせたのは、毎秒七ヘルツの低い振動であった。これが、かれに目まいと
吐き気を起こさせ、やる気をなくさせていたのである。だが、べつの川波の振動数は、それとちょ
うど正反対の現象をひき起こす。すなわち、気分を爽快にし、頭脳の回転を明敏にし、活力を増大
する振動数である。そういう振動数があるのである。
 海洋科学研究セッターの研究者たちの内臓を振動させ、かれらにうちのめすようなショ″クをあ
たえたのは、毎秒××ヘルツの超低音波の周波であった。
 だが、べつの超低音波の周波は、かれらの胃の消化を助け、心臓や肺に活気をあたえて疲労をと
り去るのである。
 それを、わたくし自身、体験している。わたくしは、その周波の存在を確認しているのである。

求聞特法の修得は、そういう能力を人にあたえるのである。
 ロ、、ハート・ウッドの実験と反対に、どんどん人を集めて気前よく財布のひもをとかせてしまう振
動数を開発するデパートが、そのうち出現するかも知れない。
 超高音波は、いまわたくしが述べたようなことをすでになしつつある。二万ヘルツを超えると、
音は超音波の領域になるが、超音波物理療法は、鎮痛、けいれんの抑制、炎症の消去、殺菌などに
利川されている。超音波の作用にょって、血液循環、淋巴液循環が、いちじるしく良好になること
は、専門家がみとめているところである。
 超音波は外科手術に応用されているが、最近、ソ連邦科学アカデミーの研究室でおこなわれた動
物実験では、強力な超音波を用いることにより、一秒問で悪性腫瘍、が破壊できることを示した。腫
瘍の成長は止み、動物は回復したと発表されている。それどころか、動物のからだにはその悪性腫
瘍に対する免疫性が生まれたという。聞こえない音(振動)、かそれをなしたのである。これは、超
低音ではなく、それと反対の超高音の音であるが、超低音もまた、超高音にまさるともおとらぬ力
を持っているのである。科学はや、がてそれを発見するであろう、が、わたくしの求聞持脳はそれを感
じとっているのである。
 音(振動)のよき利用がどれほどの力を持っているか。
 それはこういう実験にょって証明される。
 音楽-それは聞こえる音を発する振動であるが、農場や動物園で演奏され、非常によい効果を
箔打している。即乳・爪卵・生長の上にはっきりと数字上の効火をあげている。おそらく、勣物だ
ちの構造や感受性のせいであろうが、その好みは種によって異なるという。つまり、共鳴の振動数
がそれぞれちがうわけである。研究は、現在、植物に対する音楽の効果へと進んでいる。ゼラニウ
ム類は。ハッハのブラッデソブルグ協奏曲によって、より速く、より高く成長することが発見されて
いる。専門家たちは、その動物や植物に最も適した振動数とメロディを発見し、毎日一定の時間演
奏することにより、最大の生産効果をあげる研究をすすめているので、、そのうち、洗練された音楽
を聞きたい人びとは、都市の劇場へ行かずに、田園や温室に行くようになるかも知れない。尤も、
毎日ベートーベンの「英雄」や「合唱」を聴いてすくすくと目ざましい成長をしたという豚やレタ
スを、無感動に口の中にほうりこめない人も出てくるかも知れないがI。
 細菌でさえもおなじような影響を受けるのである。ある振動数の影響下では繁殖し、他の振動数
にさらされると死んでしまうことが実験ではっきりしている。
 この発見は、ある聖歌や音楽、またはマントラを一定の効果的な方法でくり返せば病気、がなおっ
たり、頭、かよくなるという宗教的信念が、そう間違ったものではないことを証明するであろうし、
また、さきの節で述べた、幽霊屋敷とか、たたりのある場所と正反対に、むかしからの聖地や霊場、
あるいはすぐれてよい修行場の存在が、この原理によって説明することができるであろう。そうし
て、求聞持法の体得によい効果をあたえる修行場と、そうでない修行場のあることが、このことで
理解されたことと思う。なかには修行を阻害する邪悪な場所も少なからずあり、修行の場所をえら
ぶことは最も大切なことの一つである。修行の場の選択のしかたが、法を成就させるかどうかにつ
ながるとまでいってもよい。むかし、孟子の母はわが子の教育のために、三度、住居を変えたとい
うが、現代の母は、よき振動を求めて住居を変えねばならぬであろう。「振動家相学」がこれから
の運命学の主流になろう。
 修行場を名前だけでえらぶのは危険である。実際に、わたくしは、全国各地の霊山や霊場、ある
いは名のある修行場を歩いてみたが、むかしはそうであったのであろうが、いまは全くダメになっ
てしまっているところがほとんどであった。環境破壊はそういう意味でも暴威をふるっているので
ある。人の心の荒廃は、こういうところにも原因があるのではなかろうかとわたくしは思う。聖者
は自分だけの秘密の修行場を持つ。一切の所有欲をはなれた聖者でも、修行の場、魂の安息の場所
だけはべつなのである。わたくしもそういう場所を三か所持っていた。二つは破壊されてしまった。
形状は以前と変わらないが、現代文明の発する有害な振動がつたわってくるようになってしまった。
いまは一つしかない。これはどんなに身ぢかな者にも秘密になっている。これもやがて破壊されて
しまうことをわたくしは恐れている。
 そこでわたくしは思うのだが、科学と技術が、霊場や、霊的な(振動数を持った)修行場を破壊し
てしまうのなら、その逆に、科学と技術を利用して、自然だけではつくり出せないような、理想的
なあたらしい形式の霊場や聖なる修行場をつくり出したらどうなのだ、と。それは決して出来ない
ことではない。いま、わたくしはその考えを実行にうつしつつあるのだが、それはまたあとでくわ
しく述べることにしよう。
 ともあれ、わたくしの上にあらたに目ざめた振動にたいする鋭敏な感受力は、実にさまざまなこ
とを教えてくれた。われわれの周囲に存在するあらゆるものが振動をはなっており、それらはすべ
てわれわれに大なり小なりの影響をあたえており、しかも振動の影響は場所だけではないのであっ
た。場所に付随するさまざまな物体、さらにはわれわれが身につけるとるに足りぬような晶々まで
が、われわれの修行の上に、あるいは生活の上に、さまざまな振動の影響をあたえているのであっ
た。いや、そればかりではない。それは空からもやってくるのであった!・
十三-求聞持聡明法にいう「明星」の意味
 われわれ、が、他の天体からの、無数の粒子にさらされていることは、すでによく知られた事実で
ある。それはむしろ地上にあるものよりはるかに多量で、わたくしは、地上にあるものはすべてこ
の天体からの波動を受けて振動しているのではないかと思っている。
 その主なものは、雨のように降りそそぐ宇宙線である。宇宙線は、われわれのところに届くまで
に、大気中の原子と衝突して、その力はかなり弱まる。けれども、現実に、一分間にIセンチ四方
あたりおよそ六十五万粒という信じられないような数の粒子として、われわれのからだを突きぬけ、
頑強な鉛9ハリヤーさえをも素通りし、一〇〇〇メートルの海底にまで到達しているのである。
 この領域における世界的な権威者、ヤコブーオーグスター教授はこう語っている。
  「ラジウム、レットゲソ等々のほかの放射線とおなじように、宇宙線も二つのはたらきを持って
いる。一つは突然変異をひき起こすこと、つまり遺伝子に変化を起こすことであり、もう一つは組
織を破壊してしまうことである」


 だが、それだけではないのである。宇宙線は生物の組織を破壊もするが、生長の促進もするので
ある。或る天体から放射された宇宙線の波動は、人間の内分泌腺を刺激して、気分を昂揚させたり、
能力を高めるはたらきをする。たとえば、火星が「戦争の星」とよばれるのは、その血のように赤
い色からだけではなく、火星が近づいたとき、地球上の生物は、ある腺を刺激されて狂暴な気分を
かきたてられるからである。その結果、この星と大きな戦争の関連性が、歴史の上で実証されてい
る。古代ギリシアにおいては、火星が戦争の神アリーズと結びつげられ、戦いのときがくると、モ
の神殿にそなえられた神聖な槍を手に、司祭と執政寫が、「火星よ、目ざめよ」と叫び、戦意を昂
揚したとつたえられ、占星術では、この星が、「攻撃、怒りっぽい、残忍、向うみず、論争好き、
利己的、生殖腺、副腎、腎臓、切傷、火傷、武器」等の表象とされていることは、まことに興味ぶ
かいことである。あるドイツの学者は、火星の位置と、大都市における自動車事故の増減に、動か
しがたい数値のあることを発表している。
 また、新月と殺傷事件の関連について発表した犯罪学者の統計かおる。月といえば、気象学者の
根本順吉氏は、その著書『氷河期へ向う地球』の中で、月が人体に及ぼす影響についていくつかの
興味ある例をあげている。月と女性の生理的周期の間にみられるふかい関連性、また、多くの臨床
医と共同研究した結果、月齢といろいろな病気の発病との間に密接な関係があるという発見、また、
月と地震(地球上の)の発生にふかい因果関係があることを示すデータなど、かず多くの例証が述
べられている。
 あんなにも遠く、あんなにも小さい宇宙のかなたの星々が、人間にそんなに大きな影響をあたえ
るなどとはまことに信じがたいことであるが、それはいなめない事実なのである。人間は、原始的
生物から、現在にいたるまでの段階において、何度か信じられないような変化をしてきたが、その
原動力は、宇宙線の変化による突然変異に求めるよりほかないと、遺伝学者はいっている。遺伝子
に突然変異を起こすような、強烈きわまる宇宙線の出現は、何千年、あるいは何万年に一度の稀れ
な出来ごとであろうが、無数に降りそそぐ宇宙線の波動の中から、すぐれた人間をつくり出す波動
をえらびとり、これを活用するということはできないものであろうか?
 w・ワトスッはその著『スーパーネイチュア』の中でこう述べている。
  「大地の震動、大気の潮汐、宇宙線などにすべて共通していることは、それらが非常に低い于不
ルギーで作用しており、きわめて微弱な信号を送り出していることである。見えない月の位置、見
ることのできないイオンの濃度、地平線上の惑星の微弱な磁気の影響などのような刺激に反応する
生物の明らかに超自然的な能力は、すべて単一の物理的現象-共鳴の原理に帰することができ
る」

 求聞持法における「明星」は、まさしくその応用だったのである。
 チャクラが目ざめてからはじめて、暮れかけた東南の空に向って座ったわたくしはすぐにわかっ
た。明星、か、決して単なる神秘感をいだかせるだけのものではないことを。
 真言の読誦による脳の覚醒だけでは充分でないことがわかった。それは、金星からの波動の受信
装置、共鳴装置と思えばよかった。それと、行が成就したのちにさらに明確になったことがある。
それは、主役は明星だけではなかったのである。明星に付随してかならずあらわれる或る星(秘す)
がある。その星との相乗効果が重要であったのだ。日月の蝕もふかい関係があった。
 以上のことがすべてわかった。同時に、いままでだれも気がつかなかったおもしろい「受信装
置」のあることに、わたくしは気がついたので冷芦1

仏像の身体を飾る宝石の謎
 そのとき、わたくしは、御本尊準肌如来の御尊前で、ふかい瞑想に入っていた。定からさめてゆ
うくりと目をひらいた瞬間、あ! と思った。きらりと如来の眉間が光ったのである。
 といってべつにふしぎなことではない。準廊如来は、眉間に、いわゆる「第三の目」を持ってお
られる。いわゆる「仏眼」「雲眼」である。尊像の眉間のその場所には、透明の宝石が象嵌されてい
る。それがローソクの光に映えてきらりと光ったのである。が、そのとき、あ″と思ったのは、そ
の瞬間に、ずっと以前に読んだ古代ヨーガのある秘法が、ぱっと念頭にひらめいたからである。そ
れは、ある種の宝石を、ある形状・形式で身につけることにより、ひとつの超人的能力を獲得する
という法であった。
 御尊像の第三の目は、クンダリニー・ヨーガの「アジナー・チャクラ」にあたり、求問特法で最
初に覚醒するのがこの部位である。わたくしは、そのとき、このチャクラの定に入っていた。目を
ひらいた瞬間、御尊像の同じ部位がきらりと光り、その刹那、まるで自分のその部位がきらりと光
うたように感じられたのである。
  「そうだ、このチャクラに宝石をつけてみたら・」
 われながら突飛な考えであったが、その意識の奥に、鉱石ラジオの記憶があったのかも知れない。
 御承知の通り、ラジオ放送の初期の頃には、ラジオ受信器といえば、鉱石検波器を使った鉱石ラ
ジオばかりであった。まだ真空管が実用化されていなかった時代である。もちろん感度がよくなく、
弱い電波の場合、受信するのにたいへんな苦労をするし、その上、分離もよくない。しかし、電気
は不要で、鉱石そのもの、か電波を受信してくれる。しごく簡単な構造でとにかく受信するラジオが
つくれるので、たいへん便利であった。この鉱石ラジオは、その後、真空管の実用化がすすみ、一
時まったくすたれてしまったのであるが、真空管の小型化が要求されるようになった結果、レーダ
ーなど、昔にもどってふたたび鉱石検波器を使うようになった。ところが、苦肉の策でやむを得ず
使った鉱石が、皮肉にも、真空管よりはるかに性能のよいトランジスターを生むきっかけになった
・のである。すなわち、ゲルマニウムーダイオードの発見である。
 科学に弱いわたくしも、これくらいのことは知っている。鉱石には電気の波動を受信する性能が
ある。そうして、古代ヨーガでは、ある種の宝石を身につけることにより、超人的能力を獲得する
方法を教えている!
 わたくしは夢中になって、手に入るかぎりの鉱石をためしてみた。さいわい、わたくしは、あら
ゆる物体が発する振動を感受し、そのさまざまな影響を見おける能力を持っている。興味ある結果
がつぎつぎと出た。鉱石は、ラジオ検波器のように受信するだけではないのである。振動を発しもするのである。受信し、発振するのである。一定の振動を発しており、また、他からの振動を受け
て、べつな振動に変えることもある。つまり、他の鉱石や金属と組み合わせて、まったくべつな振
動に変えることもできる。中には、こちらのリズムをかきみだすような振動を発するものもあった。
わたくしは思うのだ、か、世間でょくいわれる「呪いの宝石」などというのは、悪い振動を発して、
モの所有主の知能や理性をゆがめ、判断力を狂わせ、重要なはたらきをする内分泌腺の機能を低下
させて病気や不幸におとしいれるのであろう。もちろん、その反対に、ひとにょい影響をあたえる
宝石もたくさんある。あきらかに病気を直すようなはたらきをすると思える鉱石もあった(尤も、そ
の最大のものがラジウムであろうが)。わたくしは、以前、仏や菩薩の尊像が、なぜ多くの宝石や理路
で身を飾るのか、不審でならなかったのだが、これでその意味がわかったような気がした。無欲な
聖者かおる種の宝石を珍重する意味も理解できた。
 では、求聞特法ではどうだったろうか?
 ある種のサファイアが、顕著なはたらきをすることをつきとめた。
 これを眉間のチャクラに置くことにょり、このチャクラの覚醒をうながすのである。もちろん、
わたくしとても、サファイア、か金星とおなじ振動数を持っているなどというつもりはない。しかし、
この宝石をチャクラにつけて明星に対するとき、この宝石はたしかにアジナー・チャクラを刺激す
るのである。時には痛いほどの刺激を感ずることがある。
 ところで、サフ″イアは、色がちがうだけで、ルビーと同種のものである。そのルビーは、殺人
~凶叫[11.田!のレソ。べに。 1 吋欠のものだといわれる。このへん、もっと突きつめていったら、お
もしろいものが発見されるような気がする。チ十クラ用のサフ″イアは、合成でも性能に変わりは
ない。かんじんなのは色である。それと、もう一種、日本で産出する或る鉱石に、おもしろい性能
を発見している。しかしこれはまだここでは発表できない。