大善地法
信
心のきよらかさ。信義を重んじ、善行を楽しむ心である。
それと、仏教で説く四つの真理、すなわち「四諦の理」と、「三宝」すなわち、仏と、その教えと、その僧団、および、業と、その報いとのあいだの因縁・因果性、以上の三つにたいするふかい確信をいう。
勤(精進)
勤勉であり、なすべきことや、善行にたいして勇敢なことである。
捨
私心をはなれ、平静でかたよりのない心をいう。
漸
つよく反省し恥ずる心。
‐ 教えや、他のすぐれた人に対して、自分が不完全であり、不徳であることを反省し、恥ずる心であ
る。それはまた、教えや師友にたいしてふかい恭敬の心となる。
愧
社会的な立場、グループの一人としての自分を自覚し、恥ずかしくないように行動することである。
漸は他に対して自分を恥ずる心、愧は自分自身に対して自分を恥ずる心である。
無貪
むさぼりのないこと。地位・権力・物質などに執着したりとらわれたりしない。
無愼
つよい忍耐力。憎しみや怒りのないことであるが、それだけでなく、積極的に他を愛憐する心であ
不害
非暴力であり、他を害さないことであるが、それだけではなく、篤い同情心を持つことである。
軽安
すなおで身心明朗であることである。
よき適応性を持つことであり、つねに身心を軽快安適にたもち、徳を積み、修行にしたがうことが
できるように心がけることである。
不放逸
なまけず、放縦に流れないで、修行や勉学にはげむこと。
以上であるが、この大善地法の心所は、随煩悩の心所にたいして、つぎのように対照配当されるの
である。
信―不信・不正知
衝
無噺・詔・僑
無愧・覆・笛
無貪-貪・樫
無職-職・忿・恨
勤 心緊怠・失念
軽安-悟沈・悩
不放逸―放逸・散乱
捨―棹挙・嫉
不害-害
つまり、修行者は、つねに自分のこころに注意をはらっていて、煩悩の心所が動こうとするとき、
ただちにこれら大善地法の心所を以てこれに対抗し、煩悩の心所を制圧してしまおうというのであ
る。これをくりかえすことにより、ついには煩悩の心所が起こらぬようにしてしまおうというわけで
ある。
なるほど実によく考えたものではないか。
しかしそううまくいくであろうか?
のちにあらわれた大乗仏教は、これらの随煩悩をすべて六大根本煩悩におさめてしまって、これに
「六波羅蜜」(六度の行)を対照配当した。つぎの通りである。
貪-布施行
職-忍辱行
疑-智慧行(般若)
しまうのである。いや、それ以前に、「戒」の修行課程(それは心身と環境の調整であるが)に耐えられ
ず、落伍していってしまうのだ。
それにまた、あまりにも緻密詳細にこころを分析してきびしく自分の心と行動を規制するため、そ
れがあたらしい抑圧となって、修行者の無意識層に葛藤やコンプレ″クスを生ぜしめるのである。フ
ロイトは、「文化と道徳・教育・宗教が人間のさまざまなコンプレご
べ、「われわれが無意識の意識層に持つ抑圧と葛藤、精神的外傷のほとんどはそれによるものだLと指
摘しているが、まさにこの修行法こそ、適用を一歩あやまると、現代人にとってそれにあたるものに
なるといってよいのではないか。
それは大乗仏教についてもいえることで、大衆宗教である大乗仏教は、最も簡略化することに成功
はしたけれども、大乗仏教の最大のあやまりは、「煩悩」を表面意識のみでとらえていることである。
もっとも、ふかい「信」に入らせることにより、無意識の意識層におけるさまざまな抑圧やコンプレ
″クスを処理しようと考えるのであろうが、前に述べた通り、無意識の意識層における抑圧や葛藤、
精神外傷から生じたこころは、傷つき歪んだ異常なこころで「カミもホ手ケも真理も公正も信じない
こころ」なのである。これを、さまざまに説得し、あるいは折伏など、フロイトのいう「宗教的おど
し」をかけることによって「信心」をふかめようとすることは、ますますそのコンプレご
め、精神的外傷の傷を拡大することになる。まさにフロイトのいう「社会的制裁はつねに宗教的おど
しと組み合わさっており、人間を二度とふたたび立ち直れないほど責めさいなむ。そのため、病的な これは、とくに仏教の修行でなくても、なにかものごとを決断するとき、きまって生ずる迷いであろう。